消しゴムの頭と心における野生

脳と身体との間で引き裂かれた存在を表出する映画として、デヴィッド・リンチを挙げることができる。その自らの、消しゴム頭のイメージ=『イレイザーヘッド』によって70年代に映画を作り始めたデヴィッドリンチにとって、持て余し決して処理しきる事の出来ない、脳の過剰とは、彼が映画によって表現することの動機とずっとなり続けている。出来事の脳的次元に、それは世界を視ることの端を明らかに発しながら、どうしても脳的次元には安住されない、身体と性的欲望の誘惑へと駆られ、そこで引き裂かれている存在の有様を、デヴィッドリンチは捉えている。

Damaged brain−ダメージを受けた脳の持て余しを見詰める様とは、デヴィッドリンチを表現へと駆り立てるファクターとなっている。身体とは、それがたとえどんな形態であっても、とても信用できる現実ではない。身体への絶望感を知り尽くしている。しかし脳の次元へ安住してしまうことは、どうしても退屈を意味する。脳によって世界を傍観する眼とは、身体の次元、生を肯定し他者の生と交歓する身体の活動を眺めながら、羨望し、嫉妬し続けるしかない。身体への誘惑へと、脳は知らずしらずとも想像的に越境し、身体の出来事と交わってみるものの、そこにはどうしても適応しきれないジレンマと嫉妬心が残っている。脳と身体の間の葛藤に、デヴィッドリンチのモチーフとは拘り続けている。リンチの作品群において、この脳が優位に立つ時期と、身体が優位に立つ時期とに分かれていると考えられる。脳的次元の圧倒的力によって世界を歪められて見る像に拘り続けたのが、初期の幾つかの作品、イレイザーヘッドからエレファントマンといった映画で、これに対し、映画における身体の次元が具体化されるようになり、身体的享楽の優位な次元から制作されていったのが、ツインピークスを皮切りにしてワイルドアットハート、ロストハイウェイといった映画群である。しかし、リンチの映画にとって、最初に問題を生じさせる、世界の根本的な亀裂に当たる次元が、脳と身体のズレによってもたらされるものであるという、表現の動機に当たる次元は一定している。

身体に憧れることとは、性に憧れることである。セックスを巡る赤裸な事件を描写することによって、生の力動性を呼び出し、欲望のアノミーを描き出し、登場する人間達の構図が、構造的に常に何か過剰な部分を残余として、不気味な他者性を残し、それらが構造的な狂気として、世界の表面を支えていることの現実性について、淫らなまでに露わな姿で描き出そうとする。世界の表面では処理しきれない過剰なものが常にあり、それは時に狂気として過剰なドライブを演出して主張することもあるが、世界にとっては見慣れた亀裂と狂的衝動の存在について、強烈なリアリティをもって、映画の中で再認させてくれるものだ。リンチの映画において、脳の過剰、持て余した情念と処理しきれない情報の束とは、往々にして自滅という形をとって、決着をとる。例えばそれは、消しゴムの滓として。イレイザーヘッドでは、リンチ自身を模写したような神経症的な主人公のモノローグ的な世界の描写に終始している。それはリンチ自身がいつもそうしているように、神経質そうな顔つきの上に、リーゼントをだらしなくしたような頭で、髪の毛を逆立てるようにして、過剰に立てている。それはチキンが勘違いして逆上してるような頭が凍りついたようにも見えるだろう。

彼が見る悪夢の中で、自分の頭がもぎ取られ、窓から放り出て外のコンクリートの地面に落ち、それを子供が拾い持ち去っていくのを、横に寝ていたヨボヨボのホームレスが悔しそうな顔で眺めている。主人公の切り取られた首は、子供によって消しゴム工場に売られ、馴れた手付きの工員は首にドリルのようなものを当て、脳ミソのような中味を抽出し、消しゴム作りの機械の中に注入し、脳の内容は、ベルトコンベアで鉛筆が作られていく流れに乗って、白い消しゴムの一部として、鉛筆の尻に取り付けられる。工員は出来上がった製品を試してみるが、鉛筆で紙に文字を書いて、その消しゴムですかさず書いたものを消す。でてきた消しゴムのカスを、床に払う。脳の中に起きていた、主人公を引き裂くほど悩ませていた過剰な妄想と根拠としての彼の情報とは、消しゴムのカスとして無惨に払われ、何事もなかったように工場で、消しゴム付鉛筆の生産のラインは続く。イレイザーヘッドにおいて、ダメージを受けた脳とは、このように癒されることもないし、何処にも持っていきようがないもので、映画の最後のイメージとは、そのような過剰な脳の破裂である。

この過剰な脳、過剰な自意識、妄想的な内省、そしてダメージを受けた脳が、脳の次元によってではなく、身体の獲得によって救われるかのように見えるような、屈折したハッピーエンドを描き出している映画もある。ニコラスケイジとローラダーンが主演した、あの『ワイルド・アット・ハート』である。この映画でも、基調となっている、ダメージを受けた脳、脳に特定したダメージを与える病的な拘りとは、特徴的なものになっている。ニコラスケイジは、ならず者であり、金持ちの娘のローラダーンとは母親に結婚を反対されているが、この母親もまたケイジに対して少なからぬ性欲を持っていて、嫉妬している。母親はケイジと娘の関係を妨害するために刺客を送るが、パーティ会場で、この母親が送った黒人の刺客を、ケイジが階段から突き落とし、逆に殺してしまうシーンによって、映画は始まるのだが、その殺し方というのが、刺客の頭を集中的に、これでもかという感じで、ケイジが殴り続ける、奇妙に、頭脳部分への攻撃に拘る変質性が強調されるシーンによって始まっていた。(この執拗さとは、ニコラスケイジは要するに、脳に対して復讐してるのだろう。)損傷を受ける脳のイメージが始めに出ている。最初の事件によって、ケイジは刑務所に服役し、そして時間が流れ出所し、ローラと再会することによって、物語は動くのだが、ワイルドアットハートの登場人物は、いずれにしろ、脳の次元、記憶の次元に過剰な損傷を持つものとして、振り返ると思考がそこでショートしフリーズしてしまうような、損傷性を有する記憶を持つものとして登場している。過去の外傷的な記憶の障害とは、即ち脳の損傷であり、偏った硬直した脳を抱え持て余しながら、登場人物は新たに冒険に繰り出すことになる。結婚を妨害する母親から逃れて、二人の行方はワイルドな逃避行的なものとなるが、二人の乗るオープンカーが、ある夜、田舎道で、事故に遭った車を発見する。運転した男は死んでいて、もう一人、木陰の中から、頭から血を垂れ流した女が不気味に現れる。頭からはダラダラ血が流れているのに、女は自分に何が起きたのか全く分かっていない模様である。普通の顔をしながら、しかし意味の分からないことを喋っている。この女性もまた、脳の損傷を深く負っていることをイメージしている。

許容量を超えるトラウマ的体験から(ローラにとっては幼少時に叔父から受けたレイプなど)、脳の損傷、何らかの記憶力と思考力の損傷を担った人物達が、それら過去から逃れるようにして、自由になるためにワイルドな旅を続けている。ここでケイジとローラは、胡散臭い人物、ポルノ映画のプロモーターであるウィリアム・デフォー演じるところのボビー・ペルーなる人物と出会い、銀行強盗をやって金を奪うのを企む事になうのだが、このボビー・ペルーなる人物の役どころが、単に胡散臭いだけでなく、変態性、異常性のにおいをプンプンさせている。危険な人物ではあるのだが、逃避行の為には、この人物との関係が切れないものとなっている。ボビー・ペルーは、二人の逃避行動を危険な方向に導くし、ローラに対して誘惑めいたからかいもかけるのだが、脳の損傷が、あるラインを超えた向うにいってしまった登場人物としてのボビーペルーは、田舎町の銀行を、ケイジと襲う時に、最後にしくじりを犯し、警官に追い詰められ、銃で狙われているところ、自分の銃で自分の頭を撃ってしまうことによって、この狂気の男は自滅することになる。銀行強盗が失敗に終わった結果、ケイジは再び刑務所に収監される。ヨロヨロしながら自分の頭を誤爆することによって、異様なメイクを施したウィリアム・デフォーの頭が吹き飛び、地面に叩きつけられてグシャリと潰れる様は、もう単なる気持ち悪さを超えて、滑稽さに笑うしかないような絵である。

ワイルドアットハートの逃避行において、過去のトラウマから逃れる旅とは、ケイジとローラにとって、刹那的で現在的な快楽をワイルドに肯定することによって、自分達の生と欲望を肯定し続けることにある。もちろんそうすることの中で、彼らの視野は狭窄になっていくわけであって、逃避行には亀裂と弊害も伴っている。存在の亀裂を忘れるための最大のアヘンとは、彼らににとって身体的な享楽であり続けたのだ。脳の過剰、記憶の損傷と闘うための、身体化の行動である。彼らの快楽的な行程を邪魔しに追って来る、これもまた脳過剰の立場、老いた母親の嫉妬心的な執念、何物かに対する復讐心に対して、身体の立場が勝利するためには−現在的な生を肯定しなおす為には−、やはり脳の過剰が自滅してくれる事件を必要としたのだ。ワイルドアットハートの主人公二人にとって、結果的なハッピーエンドとは、呆気なく、唐突に、殆ど無意味に到来し、ケイジは自分の取って置きだった歌としての、ラブミーテンダーを歌うことによって、エンドに到達するわけだ。この荒唐無稽な劇においても、脳の復讐的攻勢によって追い詰められる身体とは、最も端的で単純な遣り方によって、過剰なる脳の自滅を呼び、結果、身体的享楽の華々しい肯定としての、しかし不気味な他者性の陰も残り続ける太陽のシルエットを背景にした、象徴的ハッピーエンドを迎えた。

しかし、脳と身体との闘争によって、身体に勝利を下すというのは、リンチにとって、たぶん彼が躁状態に生活であるような特殊な時において作られているものであり、身体が勝ってしまうパターンというのは、リンチにとっては決して本来的なものではないはずだと思う。リンチにはリンチの楽天性があり、彼は別に身体性に挫折した人間ではないのだが−それどころか彼はハリウッドのシステムに対しても全く挫折はしていない−、脳と身体の葛藤から、引き裂かれた存在を美学的に摘出する映画を作っている。染みのように滲み出た小さな他者性を、イメージに穴として貼り付け、不気味な映画的結論を示し、成功を収めながらも今でも特に転向することはなく、現役で映画を作り、巧妙に仕掛けられた、欲望する主体の渦中における他者aのイメージを提示し続けている。