女がファルスを獲得する過程としての『プラネットテラー』

ホラー映画、特にスプラッター物を制作する者達の現場にとって、想像的平面と象徴的平面の区別とは絶対的なものである。映画で表現しようとしている世界と現実の世界が混同されてしまうことは、単純に狂気を意味する。同時に、ここで映画制作者は常に強烈な誘惑に駆られている。想像的次元と象徴的次元を何処までも接近させることによって、知覚世界を冒険へと徹底的に晒そうとする、スリルとサスペンスの追求である。映画の上映という場所自体がまず、観客にとっても作者にとっても、想像平面と象徴平面の区別という、最低限のリテラシーによって成立するならば、映画の内部にも、想像と象徴を区別する仕種がメタに入り込む、二つの次元の存在をメタな手付きで示しながら、その過剰接近と理性的な分離を演技として楽しむという手法も有り得るのだ。ゾンビムーヴィーの愛好者でありハリウッド的な継承者でもあるロバート・ロドリゲスは、あらゆる暴力映画からゾンビ映画の制作を巡るこの絶対的な掟の存在について、フィルムの中で自覚的に茶化してみせる遊びを示す。映画の世界と現実の世界を混同してはいけない。これは映画のルールである。同時に、このルールに則りながら、理性と人間的知覚の限界体験にまで挑むのが、映画の意味であり、醍醐味である。

知覚にとって、最初の一撃とは、必ず一元的なものであり、強度の塊、暴力的な不意打ちとして、主体に到来する。最初の段階において、そこには区別というのが見出し難い。この知覚の最初の無媒介な塊において、それの正体を理性的に把握し、象徴的な意味をそこから読み取ることは、事後的な行為であり、二次的に訪れるものである。つまり、知覚の一次性にとって、想像平面と象徴平面の分離が行われるのは、二次的な段階である。これに対して、映画をはじめとして、芸術の機能とは、分離されて平穏化された、想像と象徴の理性的分離を、もう一度原始的な未分化の無媒介性にまで投げ込んでやることにある。知覚の体験、リアリティの復活とは、この失われた混沌を、芸術の形式的機能の力を借りて取り戻してやることにあるということになる。ロドリゲスの手法にとって、この想像と象徴の一元性への回帰とは、自覚的なものとなっている。暴力、残酷、セクシャリティ、エロス、そしてゾンビ映画、ヒスパニック的なものの存在というのが、ロドリゲスのテーマとして『プラネット・テラー in グラインドハウス』によって反復されている。

生物兵器として秘密裏に開発されたDC2というガスがあるのだが、それを浴びると人間はゾンビ化する。ゾンビ化しないためには、一度ガスを浴びたものは、常に同じガスを吸い続けなければならないという宿命が生じる。ブルース・ウィリスの演じる米軍軍曹の秘密グループは、アフガニスタンビンラディンを射殺したときに、そのガスを浴びてしまった。米国に帰ってくるが、ガスの解毒を解明する科学者とトラブルになり、ガスと感染したゾンビたちの群れが、アメリカ、テキサスの田舎町に溢れ出すことになる。テキサスの田舎町を舞台にして、感染者=ゾンビと、何らかの形で感染を免れた生き残りとの戦争がはじまる。抵抗者の中心となるのは、バーのダンサーである女性、チェリー・ダーリン(ローズ・マッゴーワン)である。チェリーは、自分の仕事に飽き飽きとしながらもステージの上でエロチックなダンスを踊る。やがてチェリーは、元恋人のエル・レイ(フレディ・ロドリゲス)のトラックに乗っているとき、ゾンビに襲われ、片足を喰いちぎられてしまうのだが、反逆の主人公にあたるチェリーやエルレイにとって、彼らの存在が示すものとは、エロス的な身体への意志である。エルレイは空手の達人のように、よく鍛え抜かれた筋肉の身体を誇り、身体には大きな刺青が入っている。チェリーはダンサーとして洗練されているように、エロチックな身体の強度を享楽する存在である。

こういった身体的に最も研ぎ澄まされた現世的な快楽をエロスとして享楽する主体に対して、襲い掛かるのが、ゾンビである。ゾンビの存在条件とは、いわば、自分が既に死んでいることに気が付かないものたちの群れである。ゾンビとは、主体的な自己努力としてのフィットネスによって引き締まった美しき自己愛的身体に対して、あらゆる崩壊を引き受けてるものの存在である。ゾンビの身体とは、腐食し、崩れ落ち、感染病にやられ、爛れ落ちている。自己愛的身体像の逆に当たるものが、常にゾンビの存在論である。自己愛的統一としての人間性を所有するものとして生き延びようとするものが、これらゾンビの襲撃を掻い潜って闘いながら、逃走するストーリー=ゲームが与えられている。ゾンビの性質とは、感染させることにある。腐敗状態を、他者に感染させ、そして共有することである。ゾンビとは病の性質であるが、通常普通の人間の形を保ちながらも、病としてのゾンビが発症しないためには、ゾンビガスを主体は吸い続ける必要がある。ガスが切れたとき、その身体とは、ゾンビ化がはじまり、崩壊をはじめることになる。

ゾンビムーヴィーの物語構造とは、このように既に出来上がっているものである。ゾンビを映画として生産する時の、意味も構造も、既に出来合いのものとして定着している。ゾンビ映画ファンとしての第一人者にあたるロドリゲスは、ゾンビのキャラクターと構造をフルに活用している。プラネットテラーにおいて、特にこの出来合いの映画的構造に対して新鮮なものはないのだが、ロドリゲスの示しているテーマとしては、ゾンビ的世界で、戦い抜く主体とは、女性であり、何人かの女性像が描かれ示され、そこにはレズビアンも出てくるが、ゾンビ的腐食、ゾンビ的混沌の闇と戦い抜いて獲得されるのが、女性の存在であり、最終的にファルスを女が如何にして獲得するかという、方法と筋書きが提示されている。要するに、プラネットテラーの主人公とは、あくまでも、徹底的に、女の事であるのだ。女がファルスを確実なものとして獲得する為の物語には、途中でゾンビと闘争して殉死する伝説の男としての、エルレイを、媒介として必要とした。主人公のダンサー、チェリー・ダーリンは、愛する男を失ったが、代わりに自分は女としてのファルスを獲得し、遠い地には生き残り仲間達を連れて、理想郷を開き、ベイビーを一人授かった。そしてロドリゲス映画では通常のパターン通りに、アメリカ文明を破壊したもう一つの宿命的な場所とは、必ずマヤ文明のピラミッドのイメージによって示されるように出来ている。プラネットテラーという映画の構造とは、それによって女性がファルスを獲得する過程が示されている。