『アポカリプト』で、メル・ギブソンが説明を怠っている物の正体

前作『パッション』に引き続くメル・ギブソン監督の映画『アポカリプト』は、再び彼にとっての、キリスト教文明の優位を確認するものとなっていた。この映画は、かつて南米にあったマヤ文明の崩壊前夜を描き出している。apocalypt−黙示録とは、新しい始まりのことであり、ヴェールを外すことであると、メル・ギブソンは語っている。単にマヤ文明にあった末期社会的な倒錯性、残虐性を描くだけでなく、おそらくメル・ギブソンにとって、マヤの文明と外部としてのキリスト教文明との関係とは、現在の政治的な次元、イラクの文明とアメリカによる戦争の関係にも当たっているものだ。

マヤの遺跡として有名なものとは、ピラミッドである。ピラミッドというとき有名なものとは、普通、エジプトのものと南米のものだが、エジプトのピラミッドの場合、その建造目的とは王の墳墓であると考えられる。また南米のピラミッドと比べるとエジプトの方が巨大である。マヤのピラミッドの場合、エジプトのものとは用途が違っていた。エジプトと比べると小柄で、階段が急な造りに見えるマヤのピラミッドとは、頂上では、太陽の神に捧げるための儀式を執行し、下には民衆が集まり、見下ろすようになっている。

マヤの神聖儀式の実態とは、本当は残酷そのものであり、要するにピラミッドの頂上で行われていたものとは、人身御供である。そこでは人間を生贄として神に捧げる。生贄は、石の台に載せられ四肢を押さえつけられて、生きたまま火打石のナイフで心臓を抉り取られる。生贄の多くは戦争捕虜だったが、逆に特権的に選ばれた者が生贄になるということもある。稚児を神に捧げることもあった。生贄になることは、一方では社会的な名誉でもあり、球技で勝ったチームが生贄に捧げられるという風習もあったらしい。こんな儀式を行っていたため、この文明では社会が弱体化し衰退したとも言われているのだ。メル・ギブソンは、マヤにあったこの残酷儀式について、強烈に映像で再現し描き出している。頂上の台の上では、生贄の人間の新鮮な心臓が取り出される。まだ動いている人間は首を切断され、首と胴体は放り投げられ、ピラミッドの階段の急斜面を転がり落ちていく。下では民衆が待ち構え、儀式に喝采しながら、転がった首を捕獲するゲームをしている。そしてこれは、恐らく実際にあった出来事の一部始終である。ピラミッドの階段とは、だから常に血に濡れていた。

この映画を作る監督の立場から言えば、ここから人間的残忍さの起源について構造的な分析をする手掛かりが、本当はあったはずである。マヤの共同体にとって、これら残酷性の存立とは、いかなる理由によるものだったのかと。そっちの分析の方に、映画の進行を持っていってくれれば、この映画は明らかにもっと面白かったと思うのだが、どうもメル・ギブソンの意識は、そちらの解明には赴かなかったようである。ただ無条件に残忍な、マヤ文明の都市に生きる人々と社会という示し方しか出てはいない。

物語の方は要するに、昔の南米の一部に、牧歌的でよく調和の取れた部族が存在し、彼らは狩猟民族で、狩りを生業にして暮らしていたが、ある日そこへ、大きな都市文明を根拠にした征服者の一団が現われ、村は滅ぼされ、村人は奴隷として連れて行かれる。中央に象徴的なピラミッドを臨むマヤの都市に連れて行かれ、一部は奴隷として売られ、一部は、干ばつを鎮めるための生贄の儀式に捧げられた。

ここでメル・ギブソンの設定として不自然なのは、同じ地域、隣接した地域の住人でありながら、一方には道徳的によく完成された牧歌的な平和愛好の部族があり、もう一方には、人間として最大限の悪魔的残忍さを備えた都市の文化があるというのでは、どうもチグハグではないだろうか。マヤの都市文化の所有した残忍さとは、おそらく同じ地域に住む部族たちの生活慣習からいって、きっと地続き的に共有されるような、生活において残酷さを強いるような何か共通の条件が存在していたはずなのだ。一方に残忍さを発達させた部族があるのなら、隣接する地域には、みな同様の性質に直面させるような物理的条件が必ず存在したはずであり、一方は善であるが隣は悪であったという、明瞭な区分けが出来るような存立の仕方とは、本来あり得ない。もしマヤ民族における残忍さの起源を解明するなら、同様に課せられて不可避的な生存の条件としての、そこにある生存の過酷さの構造について分析的に示すべきだったのだ。

実際、マヤの共同体の人々にとって、風習的な残酷さを発達させた客観的で物理的な条件を明かすヒントとは、映画の冒頭部分に示されているものだ。ジャングルの中で大きな獲物としてバクの捕獲を狙っているのだが、このジャングルで生きる部族にとって、残酷さを発達させうる条件とは、狩猟という生業の方法にあるのだ。容赦なく凶暴に走り回る巨大な肉の獲物を仕留める為には、動物を一撃で殺してやるための、強力な捕獲方法が必然化される。仕留めた獲物は、大きな肉であり、彼ら部族にとってのタンパク源であり、その収穫を村に持ち帰る前に、殺した獲物の前で男たちは、新鮮な肉を切り開き、メンバーの中で順序をつけて、生の心臓から、生の肝臓、生の性器といったように、一人一人食らいつくのだ。

マヤの狩猟民族にとって、彼らが特別に残酷さの本能を発達させていた理由は、この狩猟の方法による生活様式にあることは明瞭だろう。ジャングルで狩猟することによって共通に生業を立てていた、地域的な一帯の彼ら諸部族にとって、だから性質にしても使う言語にしても、自ずから同様の性質を共有させていたのであり、そこで明らかに白黒が分かれうるような、善玉と悪玉という部族間の分離というのは、どうも本来無理がある。しかしハリウッド的なストーリーを敢えて成立させるために、そういう善悪分離型の設定をやってしまうと、マヤの民族にとっての生存のリアリティを出すことには失敗してしまうだろう。こういった設定の失敗とは、いかにもメル・ギブソン的な認識によるミステイクだな、という気もする。

この映画は本来、人間的残忍さの起源について、歴史的に解き明かせるための重要な条件を担いえたはずだが、物語の設定ミスによって、この映画が表現してしまった映画的価値とは、全然別の方へと、問題意識が本来あるべきところからズレてしまったという感じである。基本的に、マヤのジャングルに生きる民にとって、行動の条件とは、動機付けとは、単純な復讐原理でしかなくなる。やられたから、やりかえす。単純にその繰り返しによって、人間は行動も情念も強いられ、動かされ続ける。走らせ続ける。執念にかられて、とにかく走り続ける。追う方も、追われる方も。この極限まで単純化され純粋化された捕獲劇の動的構造について、あらゆる理屈的な説明性は吹っ飛んでいるといえるのだろう。メル・ギブソンが自ら語るところによると、ひたすら走るという行為を中心に据えられたこの映画の構造にとって、自分の表現したかったものとは、人間にとっての本能の次元の存在だったのだという。

確かに、この映画の中で論理的な次元は飛んでいる、安易な下敷きに収まっている。論理の消えた劇の構造、人間関係と行動の図式にとって、後に残されたものとは、ただひたすらな本能の存在を描き出すことでしかなくなる。それがよいとか悪いとかいう前に、もう強制的にそういう映画的磁場が与えられてしまっているのだといえよう。だから観る者は目の前に起きている出来事を、言語的に解釈して後付けるというよりも、もうただあらゆる言語を取り払ったところで、本能的に、スピーディな、走る−走らされる関係の動物性について、視覚的に追っていくしかなくなる。この映画で与えられている体験の構造であり効果である。実質的な映画的体験とはそれだけで、動的でスポーティな運動過程を観客に共有させることにあるというだけのものである。映画のイデーは単純明快な実体に過ぎない。この映画にとって「運動」を躍起させるための契機とは、人間的残酷さの徹底描写によって起動したもので、そういう回転のさせ方も、また動物的な操作である。

構造自体は、前作『パッション』に引き続き余りに単純な映画だった。そして情念的にも単純な起動で動く。結局、メル・ギブソンがこの映画で再確認しているのは、現在のアメリカとイラクの関係であり、それを正当化するための説明で終始している。マヤ文明における人間的残忍さの最高度の昂揚とは、それが最近の世の中であれば、イラクにおけるフセイン政権の残酷さの発達、そしてイスラム原理主義に巣食う野蛮さの有様という事に相当している。映画で示されているのは、残酷さによって滅び行く末期症状的な一個の文明に、キリスト教文明の啓蒙する足音が響いてくるといったものだ。やるかやられるかの、単細胞で動物的な循環の野蛮に、終止符を打つものとは、スペインの征服者たちが胸に掲げる、十字架のイメージでしかなかったという、結論にしても余りに単純な話である。この徹底的な単純さと明快さ故に、メル・ギブソンとは、アメリカにとって文化的次元を担う人材として必要とされているのだろう。そこにある文化的な生産の必然性は、明らかに把握できる。

この単純構造を、外部から逸らすことのできる力とは、それでは一体何なのだろう。メル・ギブソンが説明を怠った部分とは、人間的残忍さの起源について、物理的に(=唯物論的に)解明する手掛かりを示すことであり、この残忍さの環境=構造的な強制力というのは、同時代で同一平面として存立しうる地理的横の関係においては、どのような国家でさえも、共通に逃れることの出来ない条件を強いられうる可能性があるのだという、構造の条件について、物理的に説明しなおしてやる必要があるのだろう。その物質的な前提によれば、あらゆる「スピリチュアル」なものが、通用しないのだという事実をである。しかしもしそのようなものが明瞭に、説明的に示されたとして、アメリカ人が果たしてそれを理解できるのだろうか?その辺は難しいと思う。