戦士の休息

かつて角川映画の『野生の証明』という映画が流行った。僕はこの角川映画のシリーズが結構すきで、野生の証明も、中学で中間テストが終わった後に、ともだちと池袋劇場まで見に行った記憶がある。薬師丸ひろ子がデビューした映画で、高倉健さんが出てる。夏木勲も出ている。森村誠一原作のシリーズである。前作が『人間の証明』だった。人間の証明でテーマ曲を歌っていたのがジョー山中で、あれもとてもよかったが、町田義人の歌のほうも面白いと思った。よく聞くと、ちょっと古めかしい歌い方で不器用な方法の感も否めないが、決して悪くはないと思う。あの頃見た野生の証明が面白く、結構はまったのだが、よく考えてみると、男とはどうあるべしといった、ある意味窮屈で倒錯的でもあるジェンダー意識が最も突出しているタイプの映画ではあった。今から考えると、あの映画が左翼だったのか右翼だったのかはわからないが、組織や国家の中にいられず敵対した個別的人間像の倫理意識というのが、いかにも70年代的な味付けでテーマにされていた。また高倉健さんがいい味を出していた。町田義人の歌い方は高倉健的なものをまさに投影しているのだろうが、健さん的な個人像というのが、文学的な進化の階梯にあっても、やはり最後にありうる倫理的な段階として、必ず回帰してくるものなのでないかとは思う。90年代からゼロ年代にかけて、日本で最も失われてしまった人間像、文学的主体性とは、やはり高倉健的なイメージを措いて他にないのだろうし。町田義人もまさに、高倉健的なものを背負いすぎている感が、あの頃の映像の中から窺い知れるだろう。高倉健的な単独性と不器用さが何処かで邂逅するとき、その場所で必要とされるのは、まさに戦士の休息であり静かな宴である。