変態としてのニュートン

17世紀から18世紀に生きたアイザック・ニュートンの残した予言というのが、何故だか今頃出てきたらしい。

「早ければ2060年に世界の終末」 ニュートンが予言

英国の数学者・物理学者アイザック・ニュートン(1642〜1727)は「早ければ2060年に世界の終末が来る」と直筆文書に予言していた。旧約聖書を「解読」した結果といい、万有引力の発見などで知られる天才が宗教に強い関心を持っていたことを示す証拠として注目される。この文書はエルサレムにあるヘブライ大学図書館が保管しているもので、18日から初めて一般公開されている。AP通信などによると、文書は1700年代初頭に書かれたもので、1936年にロンドンのオークションで落札されたものの一部。暗号めいた記述で知られる旧約聖書のダニエル書を読み解いて「やがて世界の終わりが来る。だが、すぐにそうなる理由は見いだせない」などと独自の分析を加えている。 別の文書では、ニュートンが宇宙の配置を反映していると信じていた寺院の詳細な寸法や構造を考察したりしている。 文書には錬金術や神学、聖書の預言に関する記述も含まれている。入手したユダヤ人学者がイスラエル政府に寄贈し、69年からヘブライ大図書館で保管されてきた。

http://www.asahi.com/science/update/0621/TKY200706210132.html?ref=desktop

ニュートンの著作として有名なのは、『自然哲学の数学的基礎』と『光学』である。ニュートンは近代科学の基礎付けを開いたものだが、ニュートン自身の世界観と哲学とは、当時の宗教的世界像を素直に反映させているものにすぎなかった。やがて、ニュートンの作った体系に対して、そこの神学的世界像を破壊する試みとは、20世紀のアインシュタインによって証明されることになる。即ち、ニュートン的自然世界観に対する相対性理論の登場となる。ニュートン的からアインシュタイン的への移行が、客観的世界像について大きなパラダイムの移動であったわけで、この移行の革命的意味は、単に自然科学的世界観の問題ではなく、客観的で正確な世界像の解明と云う事で、哲学的な意味でも人文思想的な意味でも共通の、普遍的な基準を備えている。

それがどういうことかといえば、要するに、ニュートンの唱えていたのは絶対時間の存在であって、世界の根底には絶対時間が流れていて、日常的な時間性というのは、それぞれの仮象であって、絶対的な、真の数学的な時間の流れというのは一義的に存在している。科学と数学の目的はそれに近づくべきものであるというものである。それに対してアインシュタインの為した認識論上の革命とは、時間と空間の関係とは、相対的な関係にあり、空間の在り方によって、そこで流れる時間は変化しているのだというものである。同じ時刻、同じ時間であっても、観測者の位置と速度によって、そこで捉えられる時間とは違う。そして時空の関係性において、時間と空間を掛け合わせた値は常に一定であるという考えを前提に、相対性理論を数学的に証明するに至った。もちろん、この客観性を巡る思考の変更は、科学においても思想においても革命的なものとなった。ニュートンが、神学的な絶対時間−一義的で直線的な時間、を前提に世界全体を計算していたのに対して、アインシュタインは、絶対時間が存在しないことを証明し、すべての時間性とは空間の状態(形式)に依存し、相対的であることを示したのだ。故に、アインシュタイン的思考においては、普遍性の位相とは、時間と空間の値を掛け合わせた総量において、常に一定であるということにある。

ニュートンは『自然哲学の数学的基礎』において、科学的に捉えられた全体的世界像、物質の像というのを、数式的に体系化し基礎付けた人だが、実際の彼の思考の内容とは、今から考えれば殆どオカルト的な前提で物を考えていたことは明らかである。彼は聖書の熱心な研究家でもあった。17世紀の科学革命をやったといっても、基本的にニュートンの考え方とは、時代の宗教的なものである。宗教家としてのニュートンの側面とは、彼の現実的な人柄を伝えているものでもあるし、晩年のニュートンとは、錬金術に本気で没頭し、イングランド造幣局長官として働いたものである。ニュートン造幣局長官になってからは一切の科学的研究を放棄してやっていないと言われているが、ニュートンが最後に捉えられていたものが貨幣を巡る抽象的思考だったと、それを考えればなんとも興味深いものがある。金本位制の始まる前提を作った事件というのも、ニュートンが金と銀の交換比率を間違って設定したため、銀の価格が不当に暴騰したことからであるという。ニュートンが造幣にかけた意気込みというのは、もうパラノイアに真剣なもので、贋金作りを厳しく取り締まり、贋金シンジケートの親分を捕まえ裁判にかけ死刑にまでしている。

ニュートンキリスト教上の思考においても、変革的で相当に合理的な世界像を持っていた。彼の信仰上の立場とは、古代キリスト教で異端とされたアリウス派であったという。神とキリストを同等視せず、キリストは普通の人間であったのだという理神論の立場をとっている。ユニテリアンとして、三位一体も否定し、神の存在論的次元の一元性に拘っている。特に、ニュートンと貨幣理論の関係を見てみれば、ニュートンが強調したものが「等価原理」によって世界を捉える見方だったということにある。等価原理によって自然世界を数式化していく試みとは、ニュートンの段階になって特に重要な意味を帯びている。ニュートンにとって、等価原理とは、物質の性質を見るときに、「質量」において等価であるとはどういうことかという点から、物質世界の解明が問われているが(特に、惑星の質量における、重力と引力の大きさの関係)、これがアインシュタインの段階になると、「エネルギー量」の総体において等価であるとはどういうことかという点によって、物質の存在が解明されることになる。方法論に等価原理を導入してみるということが、たぶん最も革命的な方法になったのだが、等価原理論の展開とは、その後経済学を経て一方ではマルクスの方へと、またもう一方ではアインシュタインへと、それぞれ別の仕方で捉え直されることになったものだ。

現実のニュートンという人間像が、今から鑑みれば相当にオカルト的な変人であったということはあるのだろう。ニュートンは自分の著作で、世界の根底に流れているとされる、絶対時間の数学的解明にかけていたように、聖書の記述の中に、自分の主張する絶対時間の根拠も求めていたのだ。どうやらそれは旧約聖書のダニエル書(これは預言書にあたっている)の記述にとるもので、絶対時間の、おそらくそれも現世的な終焉となるのであろうポイントとは、2060年に来るものと、自分で計算までしていたわけだ。ニュートン的に考えれば、日常的時間性は消滅しても、おそらく神の絶対時間はまた別の位相で実体化されているのだろう。

つまり、ニュートンにとっては、2060年の世界終焉というのも、実は相対時間の終焉の一部に過ぎないのであり、真の絶対時間というのは、やはりまた別の位相には残るのだろうから。なぜニュートンのこの説が、今まで公にされていなかったのだろうか?昔の社会だったら、それでパニックでも起きると想定されたのだろうか。その辺はよくわからないのだが。