『スーパーサイズ・ミー』−食と身体とマクドナルド

少し前に話題になったドキュメンタリー映画で、現代人にとっての食の意味を問い返した作品『スーパーサイズ・ミー』を見る。結構、これを見て色々考えた。食について問題にするということは、数年前まで余りなかった。体重が増えたら運動すればよい程度のことしか、昔は単純に思ってなかったのだ。若い時分には、それで、そこに潜む大きな問題を、殆ど誤魔化せて突き進んでしまえる、見ないでも済ませてしまえるということもある。なかなか不調のときの原因とは、意識にも上らない。しかし要所要所で、体調不良とは食の問題に実は負うところが多く、逆に言えば食の問題を厳密に組み立てていれば、殆ど解決できてしまうということに人は気付けるはずだ。食とは結局、無意識における摂取の問題である。

有機食物、有機農業で左派系の人たちの運動というのも、なんとなく垣間見ていたと思うが、それ系の人達は、知識と情報によって厳密な世界像に依拠するというよりも、むしろ信仰系の人達で左翼に関わっている人達が多かったように見えるので、今までそんなに興味もひかれなかった。現代人の食生活はジャンクフードが蔓延していて大変だ、よくない、人間的でないといった論調が、そういった人々には主だったと思うが、逆に僕なんかだと、そういった論説を前にすると、否、全く人工的で化学的な食い物だけで、都市的にも、宇宙的にもサバイバルできてしまうような、徹底的に科学的で知識的な食事のスタイルの方が、ずっと革命的ではないかとか、思ってしまう方だったのだ。有機食物、自然に根を差した本来の食物を採らなければ人間は堕落するといった感じの、本当に字義通り人間主義的な論調というのは、認識というよりもむしろ原信憑みたいなもので、保守的な思い込みと信仰型の左翼が、対象を特に見失ったときに、こういうエコロジー系で続いてしまうのかなという気がしていたので、そういう人々のグループがいても、特に共感をもったこともなかった。あの独特の、擬似宗教的な雰囲気も苦手だったのだ。そういう集団と関わるとき、ある種の空気まで共有させられる。逆に空気を外せば、なんか彼らを傷つけたような感じにもなるし、付き合い方も難しかった。

食と身体の関係とは、確かに科学的に分析し計算が可能なもので、化学的なデータに分解して捉え直すことはできる。しかし、だから化学調味料を廃棄すべきだとか、遺伝子組み換えはよくないとかいう発想はなく、むしろそこでは化学的解明を深めて、その上で最も人間身体にとって合理的な食物を発明すればいいわけで、化学的実験を悪のようにいう人達こそが、反進歩的ではないかと思っていた。しかし自然食に向かい合う人々の心情や認識や内面が、その実如何なる宗教的なものであったにしろ、そういった傾向をみなカッコに括って外した上でも、自然食と身体の関係には、バランスの問題、適切さの問題、摂取を巡る選択の問題があるということを、改めて認識したのだ。

化学的で人工的な合成で、身体に毒のない食品を将来に渡っては作れる可能性というのも開かれてはいるのだから、別に科学的な実験を人類はやめるべきでもない。そこは一点確認してもよい。しかし、自然食と人間身体の相性というのは、やはり目に見えない長い時間をかけた歴史的身体の組成のうちで、自然が完成させたバランスとして出来上がったものとしてある。健康の為の人工的な薬物的療法ではなく、マクドナルドなどのファーストフードで行われていることとは、人工的に安価に大量生産させる、安易な身体的満足感としての、人工食物の浸透であるのだから、別に宗教的な意味合いから外れても、それらファーストフードとジャンクフードの現実が、実際にはどれだけ身体を蝕んでいるものなのかというのは、既に暗黙に切実な問題として我々の身の上には覆いかぶさっているのだ。

スーパーサイズ・ミー」では、ファーストフードが人体にどんな影響を与えているのかを見るために、マクドナルドの食事だけで、一定期間を暮らしてみせるという実験が挑まれている。一ヶ月ほどの期間を、監督の男が、マクドナルドしか食べないで過ごすのだ。肥満とは、余りに現代的な社会問題である。日本でもそれは充分な問題になってるが、アメリカになるとこの問題は更に深刻さを増している。肥満が健康を損ねることは明白であり、同様に体を壊す喫煙については、注意されることは多くても、肥満が実は喫煙と同様に、むしろ喫煙以上に、健康破壊としての深刻な問題なのだということは確実にある。人は他人に向かって喫煙するなと言うことは多いし根拠も明瞭に示せるが、食べるなということは余り言わないし、言えない。食が身体を損ねている。これは大抵の場合、無自覚的で無意識的な事件の進行にあたっている。だから改めて、そこで何が本当は起きているのかについて、事件の全容をデータとしても、わかりやすいイメージとしても示してやらないと、我々は事実について掴み直す事ができないのだ。「スーパサイズ・ミー」の試みは、その点から言って重要なメッセージを投げかけている。

人間の体の組成を決めているのは、決して自分の意識のコントロール下にあるとは言えず、膨大な長い時間、気が遠くなるような月日を経て、祖先の代から、遺伝子レベルのコントロールとして、我々の体には続いている。大昔は、人類にとって、食い物が獲得できない時間が長く続いても身体にはエネルギー源を自分で貯蔵しておけるように、人間の体には、食べると自然に脂肪として貯めこむような機能が、遺伝子レベルで備わっている。それは遺伝子のプログラムの内容である。食べるとすぐに脂肪がついてしまうのは、こういった過去の人類の経験による遺伝子レベルのインプットによるものである。遺伝子のプログラムにこういう癖がついているのは、なかなかすぐには脱却できない構造を、条件として現代人は引き摺っている。

社会が進化し、物質生活が豊かになり、食物で不自由をするということは、現代社会においては殆どなくなる。そうすると、人は、常に過剰な栄養分を摂り過ぎながら生きているということになる。かくして肥満という、現代社会に特有の病気の現象が起きることになる。食物の持つエネルギー、要するにカロリーの事だが、カロリーを摂取しすぎないように、自分で意識的に防衛しながら生きないと、現代人の身体というのは、とんでもないことになってしまう。この無意識的な摂取としての、カロリー摂り過ぎについて、意識的な指標としてのコントロールする目安を明らかにしなければならない。ドキュメンタリー映画の方法とは、そこで好都合な働きを為す条件を提供してくれることになる。

健康とは、無意識的なものなのだ。そして無意識的な領域とは、環境に依存している。マックやファーストフードの宣伝広告に浸され、犯されている我々、現代人の日常とは、すでに無意識的な環境をやられているものである。映画「スーパーサイズ・ミー」は、この無意識であり、環境管理的な領域に対して、改めて一つ一つ、意識的な切込みを入れていくことになる。マックだけの食事を続けると、単に太る、脂肪が多くなるということだけでなく、まず肝臓など内蔵機能をやられることになる。脂肪肝、要するにフォアグラの肝臓だが、新陳代謝が回らなくなると、肝臓に脂肪がつき、代謝が遅くなることによって、身体の全体的な機能も鈍くなり、沈滞してくる。

マック食にとって問題で、カロリー過大にあたるのは、肉質やパン類だけでなく糖分の多さである。サラダなど、特に野菜自体はカロリーが低くても、そこに糖分が加わるとやはり厄介な食事になってしまう。中性脂肪コレステロールが消化しきれず、血液中濃度として多くなれば、脂肪の分解速度も鈍くなる。胃液の消化機能も鈍くなり、胃がやられることになる。内臓脂肪の蓄積は、血行の全体に負担をかけ続け、心臓病の原因となる。そもそも内臓脂肪を持て余し、新陳代謝が鈍くなれば、気分としても、常に回復されない疲労を抱え、イライラし、不快な時間が多くなるわけだ。反応速度も鈍くなり、性欲は減退する。

摂取しすぎたカロリーを消費するのに必要な運動量とは、結構馬鹿にならないくらい大きい。だから必然的に、現代人は食生活の中から、カロリーの摂取について、自己防衛しなければならないのだ。自ら実験者となった監督の男性は、一月ほどで、体重の一割り増しになった。33歳、身長188センチで、84キロの男性の体は、一月後に体重は11キロ増えた。そして実験の終了を宣言して、元の体重に戻すのに、9キロ減らすのに9ヶ月かかったそうだ、そして残りの2キロ減らすのには更に9ヶ月かかったそうだ。しかしマックだけ生活で食い始めたときは、最初の一週間で5キロ増えている。

人間的身体にとっての、可逆性の難しさ、について、この実験は証明している。だから、人間身体にとっての不可逆性−それは、人間が人間たることの、本質的な由縁であるが−を何らかの形で意識していなければ、我々は、手に触れるものの目に見えないヤバサというのに、なかなか近づくことはできない。映像のイメージによって、この不可視性の奥行きに触れさせてみること、そこに明瞭な表徴としてインデックスを立てることによって、効果的な警告を共有させること。それは、現代社会と呼ばれるヴァーチャルとアクチャル、不可視と可視の、危険と快楽の鬩ぎ合う領域にて、足を入れると泥沼のように入り込んでしまうような、不可視の奥行きを、改めてわかりやすいパースペクティブをもって、説明し直すことにあるのだ。ここにある不可逆性に気がつけなくなったとき、動物と人間の姿が、見分けがつかなくなるのだろう。