タイマーズとは何だったのか?

なんか先日深夜のラジオで久しぶりにタイマーズがかかったのを聴いたので、改めて調べてみた。活動期間は89年の一時期。そして再結成したのが95年の一時期みたいだ。なんか清志朗っぽいのがやってるなとは当時思っていたが特に興味はなかった。というか冗談以上の意味がないので却って詰まらんと思ったのだが、しかし僕の予想に反し、時代の流れとはこういった諧謔的センスの延長線上に展開した。今あるその周辺の文化の起源を見てみると。89年とは、大喪の礼があり、昭和から平成に年号が変化した渦中の時にもあたっていた。このタイミングをもってタイマーズというコンセプトは生まれたのだろうか。89年10月13日深夜のテレビで彼らはちょっとした事件を起こす。こんなことあったのかと覚えてないが、しかしだからなんなの?ノスタルジーネタの暴発でしょう位にしか思わなかっただろう。タイマーズは大学にも登場したみたいだが、当時もう僕は大学にいってなかったし、騒ぎといっても意味も興味もひかなかったと思う。しかし改めて見ると、この辺にある変てこなセンスが結局そのまま今でも続いているのだ。文化の存在である。

文化の伝承とは奇妙なもので、決して理屈と意味で割って切れるものではないということだろうか。文化とはこういう不透明なものであり続ける。そして不透明であるが故にそれは脈々と続く。特に大きな支配力には至らなくとも、同じレベルで社会には定位し続ける。むしろタイマーズ的なものとは、今のゼロ年代文化のほうが、より深く汲みいれるものとなってる。文化という現象の不思議さとしてそこを見据えつつ、繋がっている歴史的な線を辿り見出していく。この頃からやってる事は変わってない。進歩もないけど、今の方がよりこの文化の本質について理論的で自覚的になっている。そして文化の規模も実はかつてより大きくなっている。しかしタイマーズのセンスは、やはり新左翼文化のノスタルジーであって、そこにあったはずの破壊的な性質は、もう今では消えている。失われている。それも必然的な流れだったのだろう。より無害化されたタイマーズが今の基準になっているともいえる。

タイマーズとは一個のギャグであったわけだが、それは相当シュールなギャグであったとは、当時気付かなかった本質が今の時代になってより本格的に復活している事を見て、改めて驚きとして感じる。昔からこの文化とは間違い続けていたし、誤りを主張し続けていた。しかしその表面的な誤りに意味があるのではなく、スタイルとしての全体がこの文化の意味だったのだ。文化は別に消滅はしないのだろう。どんな低レベルであってもそれは同じ形で懐かしさを伴いながら社会の何処かには定位し続ける。文化の全体とはそういうものだ。表面を真に受けてはならない。木を見て森を見ずである。暗黙の全体が、そこにある文化から伝えられているのだから。

The Timers-北朝鮮