ネットにおける文化と戦争的過程

ある種の現象について、しかし「ネットイナゴ」とはよく言い得た言葉である。ネット上の表現における個々の仕組みが崩壊するとき、それはネットイナゴの攻撃によってやられる。ネットイナゴの現象にとって、その象徴的な巣とする場所とは2ちゃんねるである。無数の無意味で無根拠なスパム攻撃の群れをイメージするとき、それはまさにイナゴの大群の姿に等しい。

ネットイナゴとは日本語としても十分な意味を担いうるが、この言い方の発祥はやはり英語なのだろうか?というのは、イナゴの群れの不気味さをイメージとして表現した映画とはまさに70年代ホラーの名作「エクソシスト」の世界である。エクソシスト2では、悪魔祓いのイメージとして、イナゴの大群と戦う神父の姿が描き出される。そして悪魔の攻撃を象徴するイナゴの群れの起源とはアフリカにある。キリスト教的伝承にとって、イナゴの群れと悪魔を結びつける物語がどの辺りにあるのかは知らないが、最近でもリーピングという映画があったように、西洋的伝承にとってイナゴの群れというのは、ある種の忌まわしいイメージを意味するのだろう。

ネットイナゴというのも、インターネットの中の現象としてはまさに自然現象に近いものがある、一種の惰性的な状態だろうが、人間のリアルな文明史を振り返ってみても、イナゴの襲撃と戦うとは、人間が自らの身と文化を守る戦いであったもので、インターネットが急速にシステムとして進化する過渡期としての現在にも、やはりネットならではで、リアルの人間史に対応する戦いというのは、反復されるのだと考えると、妙に納得する。ネットイナゴ的集中というのは、匿名的であるが故に惰性的に、倫理的なたがが外れていく形で、対象についての攻撃がはじまると、得体の知れない匿名仮名の群れによる連鎖的な攻撃が起きてしまう、ネット的な仮面舞踏会の惰性というか、ある種のファッショ的でリンチ的な衝動のヴァーチャルな放出になっている。

しかも2ちゃんねる的な現象としてもう明らかなように、こういった複数の群れに見えるような攻撃も、ネットでは自作自演で演出することも可能であり、攻撃が複数で多岐であるかのような見せ掛けも、実体の数は僅かだったり、時によってはたった一人の自演攻撃だったりもする。しかし一つ一つはマイナーで馬鹿げた攻撃的放出であっても、それが一定のスタイルとして同一性をもち、あらゆる場所で雪崩的に真似をしはじめると、ネットの中はどこへいっても、全体としては厄介なもの、ウンザリする光景と成り果てる。ネットイナゴの発生を防ぎうるストラクチャーというのも、何か対策を立て得るはずである。早晩その対策システムは考案されることだろう。

インターネットは、ここ10年ほどの時間で急速に立ち上がってきた新しい進化の空間なので、あらゆるところで過渡期的な試練を試される場所ともなっている。イナゴ退治一つとっても、人類には長い対決の歴史があり、その防衛策も積み重ねの中でしっかりしているのだし、時間をおいて考えれば、これら被害の数々も、やがて防ぎうる、暗闇の中の暴力衝動もうまく散逸させていくことができるような、肌理の細かいアーキテクチャも、きっと発明しうるのだろう。この本質的に不特定多数を暗黙に無限に抱え込んだネット空間内の盲目の死の本能=荒らし衝動に対する攻防戦自体が、ネットの歴史を明らかに作っているのだ。

例えば、ビル・ゲイツという人物が、ウィンドウズというOS一つ立ち上げて完成させていく過程にしても、それはウィンドウズがメジャーな商品として現われるやいなや、OSシステム自体へのセキュリティ攻撃の攻防戦がずっと続いた。なぜハッキングするものは、その攻撃をするのか動機は常に定かでない。それが資本主義的な悪を象徴するから攻撃するのか?メジャーで目立つからやるのか?単なるヤッカミなのか?ハッカーが技術を誇示する自己顕示儀式なのか?仕舞には、それら攻撃とは、明らかに攻撃のための攻撃になっている。動機は常に靄の中にある曖昧な攻撃衝動であるにしろ、とにかく荒らし・ハッキングに対して無条件に戦ってくることによって、ゲイツは自分のOSを築き上げた。別にそれでゲイツを偉い人のようにいう積もりもないが、彼は自分の巨額の利益をも同時に守りぬいたのであり、しかしネットの歴史とは、このように無前提で無条件、無動機の荒らし・ハッキングに対して、もう守る立場も無条件に攻防してきたという戦争の賜物なのだ。既に、今の段階でも明らかに。

何故、悪がシステムに発生しているのか、それをメカニズムとして問うという作業もあるが、それを問うも問わぬも、もう無条件に先行的に、システムが全体的なものとして動き始めるやいなや、悪衝動も攻撃も同時に始まっているのだ。常に既に。このような攻防戦、ヴァーチャルな戦争の積み重ねによる賜物として、ネットの今の文化、遺産というのは既に存在している。そしてそれが何らかの形での、戦争の結果であるというのは、リアルな人間の歴史のシステム、文化体制においても、全く事情は同じことなのだ。