怖い女のひとについて

1.
どうやら外に出て空気の気配を感じてみると夏も終わっていく模様だが、夏というと逆に冷んやりとする経験のほうがリアリティを持つというものである。夏の経験というのはただ楽しかったでは済まされぬものを持つほうが、人にとってはむしろ現実的な認識を与える。夏のイメージとは、やはり何か異常な虚構性を含んでいるのだ。その完成された虚構性故に、人は夏に憧れているものでもある。

この夏なにが一番怖かったのかというと、僕は日本社会で共有されたメディア的なレベルの事件でいえば、酒井法子その他を巡る一連の事件にあったと思う。のりピーという愛称で呼ばれたかつての女の子にとって、「清純派」という形で括られたイメージが成立する背景には、何かとても曲折したものがあったのだという事情が改めて広く認識されることになった。それがこの夏もっともホラー性を放っていた事件であったように思える。

2.
事件の報道を眺めながら改めて彼女のイメージを振り返るとき、のりピーとはその表情の節々において、そういえば怖いものを忍ばせていたような気もする。そして、酒井法子の醸し出している怖さとは、実は普通に、女の人なら誰でも抱え込みやすいような怖さの存在である。笑顔も愛情も優しさも、何かそれを支えているものの背後にあるものとは、この怖い物への恐れであったのではないか。それは、女の人とは何故怖いのかという理由であり、答えである構造が、酒井法子の背負ってきた境遇には見出されるのだ。

女の人とは男にとっても怖いものだが、同性にとってもやはりお互いに怖いものである。それに比べて男の怖さというのはもっと単純なものであって、男の場合は怖さというよりもむしろだらしなさの方が問題にあり、情けなさ、ダメさというのが、存在の孕む問題性となる。

女の人の複雑さというのは、存在における屈折の平面にあり、その理解を拒絶しているような重みであり、直線的な言葉と認識がブラックホールに吸い込まれるような、不意の穴ぼこの潜在性にあり、怖さなのだ。しかしそれは別に、男は単純だからよいというような話ではない。男とは同性でもお互いにとってダメであり情けないものだが、女とはお互いにとっても怖い存在なのだ。

あの家族にとって男の子である子供は、きっと母親の怖さについて最初から気付いていたと思う。だから彼女が逮捕されて持っていかれテレビでその存在が騒がれても特に不思議なかったのではなかろうか。子供は最初から母親がそういう人であるということを知っていた。だから子供の気持ちにとっては母親が逮捕されてむしろほっとしたのかもしれない。これで自分にとって世界が理解可能なものになったと。

怖さの存在とは、別にその女性がドラッグをやっていようがいまいが関係ないことである。サーファーの夫の方はといえば、それは最初から彼女と同じ影を抱えていたタイプの男性像である。陰翳的で幽霊的な、世界の怖ろしさの存在に、二人は元から気付いていたが故に、二人の間には妙な共感の重力が生まれ、お互いに惹き合い、一緒にいて、曲がりなりにも安定した世界が所有できたのではないか。

3.
女の人の怖さとは、存在の構造から必然的に導かれ出てくる怖さである。これは決して女性差別的な物言いではない。男には男の存在にとってまた別の問題の構造、別の怖さ、別の大変さがあるというだけのことだ。むしろ酒井法子にとって、あの清純なイメージの形に仕種が、存在の構造に対する恐怖と畏怖の念から、一つ一つ導き出ていたと考えるほうが、すごく後から合点がいくものだ。清純派の形とはそのようにしてしか本来存在しないのではないか。

女の人とはその存在が置かれた世界の構造として、必然的に受動的な恐怖を抱え込むし、絶対的な孤独と最初から直面しているし、外的に強いられるものの構造が続いている。そこから女性性に特有の性格が導き出される。女性的な優しさや愛というのも、この潜在的恐怖の構造と隣り合わせにあることによって本来成立しているものだ。

女性性にとって最初から世界とは信用できるものではないし、また信用する必要もない。そこでは表面的な虚構を成立させるための力学だけがすべてなのだ。この虚構と力学を獲得できた女性は、幸せであると見なされるし、その力学から外れたものは、どう言い訳しようと不幸であるということになってしまう。

4.

女性が存在の構造として普遍的に抱え込む恐怖性について、正確に表現してきたアーティストがここにいる。Daisy Chainsawというバンドで音楽活動をしていたケイティ・ジェーン・ガーサイドである。ケイティはイギリス人でヒッピーの両親のもとで生まれた。同じ英国系で両親がヒッピーだった境遇の歌姫というとビョークの存在があるのだが、ビョークと共有するセンスを持ちつつも、ケイティの世界は、更に置かれて放り出された運命について、過激に踏み込んだ強烈な表現として取り戻している。ビョーク的な女性性を、また別の角度から過激に抉り出したところにケイティ・ジェーン・ガーサイドのスタイルが出来ている。

90年代前半にイギリスでデイジーチェーンソーが出てきたとき、そのノイジーで異様にパワフルなサウンドは衝撃的だった。パンクスが絶対的に定位して救い出さなければならない存在の構造というのも、そこで形としてデイジーチェーンソーは再認させた。

ケイティは自らの分裂症的な性癖から、一瞬成功をつかんだものの、失踪して音楽業界から消えてしまうことになる。デイジーチェーンソーのサウンドを構築していたノイジーの抜群なセンスを持つギタリストがクリスピン・グレイである。そして彼と帰って来たケイティが一緒に再び作り直したバンドがQueen Adreenaである。それはデイジー時代と比べれば、音はアンサンブルの多様性を増し、ノイズをメロディに組み込みつつ、静と動の反転も上手く使い、女性的な恐怖と狂気を濃密なエロスに包みながら、見事に再現するバンドになっている。

5.
女性の小女性、そして清純性とは、一般的な形として、「不思議の国のアリス」の世界を呼び込む。不思議の国のアリスとは、女の子が物心つき、世界の恐怖の存在に対面したとき、それを能動的に抽象化することによって存在を救ってくれる形として、普遍的な形を持っている。

しかし不思議の国のアリスとは、認識として忠実であるためには、あのルイス・キャロルの提示した形よりも、更に過激に、奥を深く更新されなければならない。放り出されている恐怖的世界の構造を正確に認識することによって、この世界丸ごとを救済しなおすためには、更に過激なリアリズムを必要とするのだ。

ここでケイティの使命とは凛々しく屹立するものである。アリスがアリスであることの正当性を勇気をもって究め出し救い出したものとは、彼女の使用したノイジーなパンクスの世界であるのだ。

6.
そもそも酒井法子のデビュー曲とは『男の子になりたい』という曲であった。『碧いうさぎ』とは、海の色を想定する碧の意味に、ひとりぼっちで何か(真実)を待っている兎のイメージを歌っている。酒井法子はまだ、サイバーノリピーの姿となって深夜のクラブでタトゥーのシールを身に纏いながら、かろうじてお忍びで、秘かにノイジーな自らの存在の過剰について解放してみせていたにすぎなかった。ここで日本型清純派アイドルを、強いられながらも喜びつつ生甲斐にして踊り、踊らされてきた酒井法子は、表現することの勇気において、今まで中途半端なものでしかなかった。

表現者とはそれが中途半端なものである限り、マスコミのネタとして消費されメディアの餌食として使い捨てられる運命を繰り返していても、文句を言うこともできないのだろう。それはマスコミ的世界とメディア的機械が常に本性的に抱え込んでいる、世界の恐怖の構造である。自分がそこで勝ち組の船に乗るか負け組で流されるかは単に偶然的な運の問題でしかない。

どこで女性とは、この世界の恐怖の構造を乗り越え、克服することができるのだろうか。酒井法子とは、このままではまだ無邪気に振り回される犠牲者の構造を、アイドル同様単純に乗せられて再生産しているだけの人形にすぎないではないか。あの岡田有希子のときと同じように。

女性における清純さと恐怖性について、また酒井法子は、こんどはもっとラディカルな形で表現し直さなければならない。でなければ、酒井法子は自分の背負ってきた境涯を宿命として、真に救い出すことにはならないのだろう。