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「ピエーールーーぅぅぅーーー」

村田さんが名前を言って呼んでいた。彼女は大きなつばが円くついた帽子を被っていて手を振りながら嬉しそうに呼んでいたのだった。チェルシーのビル街の一角で。革命書店の前を目印にして、僕と究極Q太郎のほうにこっちへ来なよと手を降っていた。飯塚くんの話していたニューヨークの隠れスポットである革命書店を見つけるまでは周囲の道が込み入っていて少々歩き回ったのだ。書店の中に入りぐるりと見て回ってからこの奇妙な本屋の内容について、空間の中心に据えられてあるソファに座り、温かいコーヒーを啜りながら、感想を語っていた。

「ここの内容が、もしアメリカの左翼を取り巻く実態だったら、ちょっとそれは怖いかな。」
「まるでカルトみたいな内容だということかい?」
「だって、この店の中は毛沢東を尊敬するみたいなセンスを中心にして、まるで中南米との結びつきによってそのまま存在してるような左翼の空間だ。これじゃあ変革の空間というよりは、カルトの偏執的な空間に近いよ。」

「偏執的な空間って?。。。要するにマニアックだということでしょう」

「革命自体がマイナーでマニアックなカルト志向によってしか、伝えてこれなかったということかなあ。。」

「いやさすがにこれだとアメリカでも大学にあるような知的な左派の空間に対して失礼ですよ。アメリカでもアカデミックな空間では、普通にリベラルなインテリジェンスの集合として、左派的な空間は続いていますから。もっとマトモだし。カタギなものですよ。それは。」

飯塚くんが笑い飛ばしながらなかば弁解するように言った。

「時代の中で残っている左翼のカルト性ということもあるけど、何か時代が止まったまま、一時代の完成した文化は、そのままずっと街の中で形を変えずに、残り続けているということかなあ。それは左翼の空間に限らず、ニューヨークでは街の至る所で目にする現象だった。ある時代のそれ自体で完成してる文化が、時間を止めて、そのままずっと凍りついたように残っている。そういう空間が街のあちこちにたくさんある。中華街にもあるしチェルシーの裏通りにもある。多様性の坩堝というのは、まるでそういうカルト性の坩堝みたいな感じだ。」

「ということは、この街では左翼も、他のイスラムやブッディストやクリスチャンやヒンズーやの空間に並んでそういう多様性を示す一角の空間にすぎないということかい」

「ただそういう空間が横に並んでいて面白いだけというのなら、それはノスタルジーであっても変革とは特に関係がないのかな」

「昔あったものは、そのまま残るんだよ。」
究極さんがソファでコーヒーを啜りながら言った。

「あらゆる時代あらゆる地域の過去の文化、過去の栄光がそのまま残ってしまうから、それは博物館か遊園地のアトラクションのように見えても、その一つ一つ自体は決して力を持たない。しかしそれがリベラルだということの見せ掛けかもしれないな。」

「お互いに迷惑かけない限り、そう自分の世界と自分の幻想を守って生きてければ、それでいいということみたいねぇ。。。」

「街自体が歴史の博物館なんだ」

「それじゃあ、ニューヨークにとって変化はどこから来るわけよ?」

「変化か。・・・変化はもう、終わってるのかもしれないな。」

「変化もニューヨークでは60年代の時代で終わったのかい?」

「変化も、歴史的博物館の一つだ。それで後は昔からあったものたちが、そのまま残り続ける。まるで別々の記憶を持った地帯が、それぞれ別個に他にはお構いなしに勝手に生き続けるみたいに、みんなそれぞれ個別に生き続ける。他人のことなんて関係ない。しかし自分のためだけに勝手にそれぞれがそれぞれの幻想を立てて生き続ける。気がつけばそこに見える多様性とは勝手なものだ。しかしそういう、勝手にしやがれ、という在り方によって、ニューヨークみたいな街は生き続けるよ。」