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革命書店の長いソファの上では既に、僕らにとって左翼を巡るディスカッションがいい所まで到達していた模様だった。

「それじゃあ。。。左翼の陥ってる問題で根本的な間違いとは何なんだろうか?」

飯塚くんがそう切り出したのだったが。

「まず彼らの多くは、言葉の使い方を間違ってるね」

究極さんは言った。

「言葉の使い方って?」

「まず彼らの中には、人間が自由であることについて、私はカテゴライズを否定する、という言い方で主張する人達がいる。」

「あー。その言い方。よくあるよね」

「しかし、それは単に、カテゴライズという言葉の意味が分かってないだけでしょう。私は言葉で括られるのが嫌なんだとかいう型の自己主張する人は。」

「ふんふん」

村田さんはうなずきながら身を前に乗り出した。

「カテゴリー、そしてカテゴライズというのは、いわば言葉の性質が持っている本性であるわけ。だからそれだと、言葉で示すこと自体を自己否定せよと言ってるに等しいわけだ。」

革命書店のフロアの真ん中では、旧式のストーブが燃えていて、白いストーブの奥には小さく赤い炎が見えていた。そんなストーブを囲みながら、僕らは白い蛍光灯の光の下で、熱いコーヒーを抱えて話を聞いていた。

「言葉で何かを名指すという行為自体に、もう既にカテゴライズが指示されている。私は何かと説明するときに、私は男ですとか、女ですとか、同性愛者ですとか、そういう述語付ける時に必ず、言葉の構造の中にカテゴライズが含まれている。だからそれだと奇妙に言葉の使い方がおかしくなってるんだよ」

「たぶんそういう人達は、左翼的な意味でもそうじゃなくても、私のことを他人がレッテル貼りしてくれるな、という意味で言ってるんだと思う。しかし本質的に言葉で語るという行為には、カテゴリーで括ることによって表現することが不可分であるに決まってる。パターンの組み合わせによって、何かそこにある物に説明を加えて他者に伝えようとする。これはすべて言葉の法則にとって必然的な行為でしょう。」

「つまり、私をカテゴリーで括るな型の主張に陥る人は、明らかな自己欺瞞に陥りやすいというわけね」

「というかそういうのは単にカテゴリーという言葉の意味が間違ってるだけのことだよ。本当は、彼らの言いたいこととは、私にレッテル貼りをしてくれるなと叫びたがってるわけ。だったらそのように言えばよいものを、何を勘違いしてか、カテゴライズ自体が敵だと思い込んでるわけよ。それは本末転倒。」

「そもそも物を考えるという行為自体が、カテゴライズすることによって物を見てみるという方法を必ず通るわけだからね。カテゴライズ、つまりパターン化とその比較ということなくして、物が考えられるということは、まずない。」

「人は辛抱強く、言葉がカテゴライズするという性質に付き合いながら、そこからはみ出る物自体ということを見て、物に与えるべき次の言葉を模索する。そのようにしてしか思考という行為は可能にならない。」

「だから、カテゴライズを否定せよ、なんていうスローガンは、最も馬鹿げた言い草だよ。レッテル貼りされるのが嫌なら素直にそう言えばよい。それを何を勘違いしてかそこにカテゴリーなんていう概念を持ち込むから、運動自体が意味わからないものになるよ。」

「カテゴライズを受けない為に自己主張する、運動するというよりも、何かを他者に説明するということはまず、言葉のカテゴリーという性質と付き合うことであるはずなのにねえ。。。」

「だからさ。。。左翼運動というのは最も本末転倒しやすいんだよ。」