デヴィッド・ボウイの震える怪物

デヴィッド・ボウイに『ASHES TO ASHES』というビデオになってる曲があるが、あれは奇妙なビデオである。ボウイが何物かのトラウマと戦ってる姿が抽象的に描かれている。白い四角い部屋の隅で丸くなり震えているボウイ。そしてピエロの格好をした背の高いボウイは、母親を連れて海岸を歩いている。何のためだろう。何かメッセージが届くのを待っているのだろうか。それにしても憂鬱な表情で。もしかしたらそれは死刑の宣告通知かもしれない。灰から灰へ・・・この曲は自分の初期のヒット曲、Space Oddityの続編となっている。それは宇宙飛行で難破してしまったトム大佐の話であり、トム大佐へ向けて、届かないかもしれない通信を送っているというものだった。灰から灰へ−とは、このトム大佐のその後の話に繋がっている。トム大佐はどうやら、天国の高い所に吊るされたままである。しかし彼は始終、果てしなく打たれ続けている。ボウイの芸術的創造力の根幹にあるのは、世界に対する恐怖の感覚である。日常生活の隅に底知れぬブラックホールが開いているのを見てしまう感受性が、ボウイにとって表現の動機付けになっていた。ブラックホールの重力に抗うためには、ロウになる方法とハイになる方法の二つがある。この二つの方法論について、ボウイは交互に示していく。デヴィッド・ボウイの80年のアルバム『スケアリー・モンスターズ』には、そんな試みの痕跡が詰まっている。ASHES TO ASHESのビデオの中で、ボウイを追いかけてるのはショベルカーである。ボウイは相変わらずピエロの格好をして、喪服を着たようなお供を数人連れている。背後にはショベルカーが迫っているが、ボウイは気付かぬような素振りである。ただ自分たちの歌を、祈りのように歌い続けているだけだ。灰から灰へ。ファンクからファンキーへ。トム大佐はジャンキーだった。彼は天国に高く吊り下げられて、ずっといつも、打たれっぱなし。・・・

Ashes To Ashes

皆さん。あの男がどうしたのか、覚えていますか?もう随分昔の曲でしたけど。地上のコントロールタワーから聞いた噂だと。ああ・・・なんということに・・・

活動家の男性からメッセージが入っています。
僕は幸せです。だから君たちも幸せであることを望む。僕は、必要と感じる限り、すべてのものを愛してきた。でも悲しい詳細とは、このように続く・・・

虚無を前にして悲鳴は押し殺された。あの繋ぎ合わされた、日本人少女と僕の写真のように。もう僕には金がないし、髪の毛もない。もう僕はここを蹴り出たいと思ってるのに。でもこの惑星はどんどん熱くなっていくばかりだ

灰から灰へ、ファンクからファンキーへ
トム大佐はジャンキーだったと、僕らはみんな、知っている
天上に高く吊られて、
ずうっといつも、打ちのめされている

何度も自分自身に言い聞かせたよ。僕は今夜は清純で通す積もりだ。でも緑色した小さな車輪が僕についてくる。ああ、まただ、・・・

僕は自分が価値があると思った友達の言葉には、いつも従ってきたさ。
わたしは幸せである。だから君たちも幸せであることを望む。一瞬の閃光?・・・ピストルの硝煙ではないだろうな・・・

僕は決して善い事はしなかったです。
僕は決して悪い事もしなかったです。
僕は、このブルーから抜け出すために何も出来なかったのです。
この氷を打ち砕ける斧が欲しいのです。
早く誰か降りて来てください。

灰から灰へ、ファンクからファンキーへ トム大佐はジャンキーだったと、僕らはみんな、知っている 天上に高く吊られて ずうっといつも、打ちのめされている

母さんは言った。あんたが何事かを為すためには、トム大佐とは関わりにならないほうがよい

母さんは言った。あんたが何事かを為すためには、トム大佐とは関わりにならないほうがよい・・・・・

デヴィッド・ボウイは1977年から79年にかけて、ベルリンに移住している。この間の音楽活動として、ブライアン・イーノと組んだアルバムを三枚ほど発表しているが、この時期をボウイのベルリン時代と呼び、彼にとって最も芸術としてのロックを究めた期間だと考えられている。LOW、HEROES、LODGER、の三枚である。アートロックというものを定義するとき、ロック史的に考えても、大体この時期のデヴィッド・ボウイを基準に考えるとわかりやすい。ベルリン時代とは、シンプルであり、形式的であり、概念的でありながらも見事に音の次元から意味の審級が脱臼されている。出来るだけ反復の快によって時間を委ねようとする。結果的にその試みから出てくるのは、ロックの形式としての自己言及化であり、純粋化である。ブライアン・イーノによるシンセサイザーなどの電子機械的な技術が、それら音の洗練化を支えるものとなっている。

デヴィッド・ボウイはロックの歴史的全体を考えたとき、絶対に欠かすことのできなかった強烈な個性である。前衛的な文学や哲学の情報を、いち早くロックに実験させ、吸収させることに成功したのも、大体ボウイの功績である。70年代前半は、マーク・ボランらと並んでグラムロックというジャンルの確立に寄与した。それはロックをファッショナブルな方向に単純化しながらも、思想的な要素に富んでおり、ブギのリズムでリフを多用し、単純反復し、中性的なジェンダーを取り入れて、セクシャリティの実験場を作り出すものだった。グラムロック期からベルリン期と経て、80年代に入り、次のボウイの実験の舞台とは、アメリカへの挑戦となる。ここから人気はありながらも本性的にはマイナーな前衛アーティストだったはずのボウイは、ポップスターとしてのパブリックイメージを巨大に帯びていくことになる。しかしそれも90年代になった頃には、ボウイの年齢も伴い、派手なアピールやステージショーからはまた退き、地道でマイペース、静かな歩みとしての音楽活動になっていったことだろう。

マイナーと、メジャーポップの間を大きく揺れ動くデヴィッド・ボウイの振幅とは、他に類を見ないほどの幅広さをもっている。彼はポップスターなのか、正統派のアーティストなのか、見分けがつかなくなる。しかし彼の多様な方面での成功を支えてきたのが、彼の持っている正確な思考力であり、感性の強さであることは明らかである。80年代の前半までは、ボウイの音楽は何処も分析するのに面白く、奇妙な魅力に満ちているが、特にベルリン時代からアメリカの時代に渡った最初に作ったアルバム『SCARY MONSTERS』では、マイナーとポップの要素が絶妙に入り混じり、興奮する音作りとなっている。ボウイが自分のambivalentとしてのトラウマ的な起源に向き合いながらも、時代の勢いを借りて一個のモンスターとして存在が隆起していくのを、もう誰も止められないという、底知れぬパワーを伝えるものとなっている。まさにそれは怯える怪獣だったのだ。