『プレステージ』

デヴィッド・ボウイが、あのニコラ・テスラ役で出ているというだけで、この映画を見たくなった。ニコラ・テスラはオカルト的想像を手放さなかった科学者として有名で、エジソンとも関係があったわけで(エジソンとはライバル関係にあたっていた)、この映画の設定は19世紀末のロンドンということになっている。しかしニコラ・テスラが死んでるのは1943年なので、テスラの年齢設定からいって、現実の時代設定とはずれているようだ。

ロンドンの街で、マジシャンが技を競っている。どんな凄い手品を見せるかということで、ライバルの競争関係とは火花を散らしている。技術の腕前だけではなく、それは女の奪い合いにもなる。女が途中で水槽から脱出できずに、死なせてしまうという事件も踏まえるのだが、競争関係−自己意識−手品のトリックという関係の為せる効果が、当時の堅苦しい社会、ロンドンのショービズの狭い社会の中で、名誉と価値と金銭と女が交換体系となって移動を繰り返していく事情を担い、象徴界を示している。この象徴交換を、マジシャンが自分のほうへと引き入れる為には、ギザギザとした陰鬱な現実界の移動と、テスラのマシンに象徴される想像界的な飛躍へと、自らの身体を差し出さなければならない。それが映画の設定で課せられた宿命である。

マジシャンの宿命とは何だろうか。凄い手品を見せて観客を驚かせなければならない。多くの観客を獲得できれば、それが彼の名声になり、大金も稼げる。新しい手品のトリックの開発には余念がない。この競争に取り付かれると、勝たなければならないという強迫観念の中で神経質に生きることになる。常に新しいネタを探している。あるマジシャンがニコラ・テスラの発明に飛びつくのも、この競争心ゆえである。トリックを姑息に秘密として限りなく張り詰めていく不毛さに飽き飽きした男が、もうトリックのないマジックとして、テスラの力に縋り付くのだ。テスラが開発していたのは、テレポートの機械である。そこでは電磁気の力で、物体も人間身体も消滅し、瞬時に別の場所へ移動できる。このテレポートの機械には何か秘密があるのだが、それは言ってはいけないことに、この映画のルールでなっている。

ラカン的に見れば、現実界とは、欲望と運命が出会う場所に生じているのだが、競合するマジシャンとその女、配偶者、家族にとって、誰が悲劇を背負い、誰が抜け出ることができるのかは、ほぼ運命的に決まっている。ただ象徴的な勝ち負けの配分に至るまでのプロセスで、そこを媒介する、登場人物たちの想像的なエネルギーが移動する様が、ドラマチックに演出され、想像界の移動するプロセスとして、控えている決定的な死の段階へと向けて、引き延ばされていく。最後に死が待っていることは、決定的で運命的なのだが、マジシャンが分身の力を使ったり、女が二人の間を移動したり、家族の娘が誰かに引き取られたりする中で、決定的な、結論としての、マジックの死=種明かしというのが、何重にもして引き伸ばされていく。この引き伸ばしの感覚、焦らしの感覚というのが、マジック=手品にとっては、決定的な本質なのだと云う事情も理解される。

手品の終点とは、死である。どんな凄い手品にも、トリックがある。控えている。しかし唯一、トリックのない仕掛として、ニコラ・テスラのテレポート・マシーンが登場することになるのだが、そこにトリックがないと云う事は、要するに剥き出しの狂気が、それを機能させているのだということも証明される。ニコラ・テスラは、この映画の中で想像界を媒介する役割として出てくる。デビッド・ボウイの演技はまさに、はまり役である。木製と鉄製が入り混じって出来あがった大掛かりな箱のようなテレポート機械は、装置を稼動すると雷のような電流を縦横無尽に走らせる。真ん中に据えられた対象物−それは黒猫や黒帽子や人体だが、電流と磁気を受けることによって、根源的な移動を成功させるはずだった。

マジックにおける、対象の移動には、常に不吉な残余物も残り続けている。マジシャンが愛人の女を、ライヴァルの工作によって死なせてしまうのも、移動の失敗によって生じた残余の記憶であり、反復するトラウマになっている。マジックには、成功と失敗がわかれ、たとえ成功が多くとも、そこには移動に失敗した残余も記憶として背負い続ける。マジシャンの宿命である。ピストルの弾丸を手で掴む芸には、誤爆したときの生々しい傷跡も残っている。なぜそれでも完璧なマジックを求めて、想像的な流離いを彼らは続けなければならなかったのだろう。19世紀末ロンドンという時代を取り巻いていた強迫観念にとって、それは資本主義に起源を持つ強迫性であったはずである。当時の勃興しつつあった産業資本主義に並び、次の段階の華やかな局面へ向けて飛び立とうとしながら、悲劇的に墜落した二人のマジシャンの姿がそこに残余として落とされた。この資本主義的な上昇運動が提供する希望の、想像的な橋渡しを担ったシンボルとは、ニコラ・テスラ的なオカルト機械への憧憬であり、その疑似科学の煌びやかな誘惑であった。