『グエムル−漢江の怪物』

グエムル−漢江の怪物』とは去年話題になった韓国映画であるが、DVDで見た。怪獣映画というか、これは狭義に怪獣映画である、とでもいうべきなのか。しかし本来の怪獣映画というのは、元々こういうものだったのであり、怪獣自体が暴れる姿を売り物にするというよりも、やっぱり怪獣の出現した社会的背景から構造論的な問題を提起するというものであったはずだと、改めて考えた。怪獣映画といえば、元々、過去には日本のお家芸のようなものであって、ゴジラの映画などが、50年代から60年代に最初に制作されて出てきたときは、社会派的な問題性を担うものとして作られたはずだ。ゴジラの第一作では、出演してる俳優も志村喬だったりして、それなりに真剣な映画として最初はお披露目されたはずであった。だんだん怪獣映画の生産体制とは、チャンバラ映画のノリと同じものになっていったし、それはそれで、大人よりも子供達を対象に絞った方がよく受けるのだから、必然的だったのだし、間違った展開ではなかった。いま改めて、韓国から、そういった日本にもアメリカにも昔は作られていたはずの、怪獣映画の初期的なコンセプトを送り届けられると、なかなか感慨深いものがある。そうだよ、怪獣映画って、元々こういうものだったんだよと、膝を打ちたくなる気分だ。しかしそれが何故、韓国発で、今頃改めて、という背景にも、経緯がいろいろあるはずだ。また、そのうち、中国発、ベトナム発、東南アジア発の、ゴジラならぬグエムルと、お目に掛かることになるのかもしれないが、社会にとって、怪獣の出現することの基本というのに、もう一度立ち返って考えてみたい。

グエムル』というのは、韓国からカンヌ映画祭への出品も為されたようで、やはりこれは単なる怪獣映画として扱われたものではない。まず、ネットを眺めていたら、この映画についての興味深い意見を見つけた。

この怪物(グエムル)は、駐韓米軍の遺安室から密かにある毒物(ホルムアルデヒド)を下水に流して捨てたために現れたという風に描かれている。調べてみると、米軍が漢江に薬品を不法投棄した事件があったというのは事実のようで、この作品はそこからヒントを得て作られたらしい。ただ、この映画で面白いのは、怪物(グエムル)がエイリアンやテロリストのような「目に見えない脅威」としてではなく、グロテスクで時にユーモラスですらあるその姿を度々地上に現わす恐竜のように描かれていること。怪物と戦う人間たちもどこか抜けてて滑稽だが、怪物のほうも「悪」の具現というより、突然変異に自ら驚いて場違いなところにいる自分自身をどこか持て余しているといった印象がある。怪物がいったん呑み込んだ人間たちを下水溝に吐き出して囲っている理由もよくわからないが、食糧保存のようなものかもしれない。怪物が街を「荒らす」のは、「悪」だからではなく、やむをえない自己保存のため――そして同時に、人間も自己保存のために怪物を撃退しなければならない――という「自然権」的な視点がこの映画にはあるように思える。
http://d.hatena.ne.jp/matsuiism/20070502

漢江とは、ソウル市を流れる大きな河川であるが、東京でいえば多摩川や荒川のような河川にあたる。ソウルは大都市であるわけで、河原で生活するというのは、そこにトレーラーハウスみたいなのを持ち込んで、それで売店を営んでるわけである。東京だと、昔はいたかもしれないが、今はもうありえない風景である。まず行政上、日本では許されていないだろうが、韓国にはまだそういった生活をする人々が、今でも多いのかもしれない。孤児の兄弟が、河原で盗みを働いていたりするのだが、日本の映画でそういった登場人物を、現在にもってくることはまずあり得ないし、リアリティがなくなる、しかし韓国ではこういった人達がわりかしリアルに住み着いてるのではないだろうか。つまりこの映画では、日本と韓国との市民社会的な生活状況が、時代段階として差があり、日本で怪獣映画が作られはじめた60年代的な生活の有様が、韓国では00年代の今でも、ハイテク化したソウルのような都市を背景にしながらも、パラレルに状況的には対応しているのだということを意味するだろう。

河原で商売を営む親父は、ソウルの市民社会からすれば、ダメなほうの親父にあたるのだろうが、子供には愛が深く、立派に育てている。売店の一家は爺さんがいて、上の兄貴はどうも頭がのろいので売店などやっているが、弟の方は大学までいかせた、しかし学生運動に深入りしてしまい、卒業してもフリーターしてるという身分、妹の方は出来がよく、アーチェリーでオリンピックの銅メダルを獲得した。なんだかチグハグな一家で、河原になど住んでいるが、ある種の真面目さというのは、韓国社会の流れと同調しているのだ。この辺の貧しいながらのマジメっぷりというのも、60年代の日本社会と対応してるような感じだ。

この漢江の河原に、白昼、人々が楽しんでいるところに、突然怪獣が出現して暴れるのである。怪獣の実体については明らかである。この怪獣は突然変異によって生まれたものであり、その原因は米軍の不法に廃棄した薬品である。要するに災いの正体は、米軍によるものである。この映画の中には、各所に米軍の権力が韓国社会に投げかける影、その支配力というのが滲み出ている。売店の親父の娘は、中学生で、真面目でいい娘だったが、怪獣の餌食になった。もう死んだものだと思って葬式もしたが、携帯電話に彼女のメッセージが入る。怪獣はどこかへ娘を連れ去ったまでなのだ。そこでダメ親父を筆頭に、爺さん、兄妹と、この売店一家が娘を取り返しにいくわけだが、韓国側の警察や病院は、異常に物分りが悪くて意地悪で、そういう彼らを狂人扱いして相手にしない。原因不明のウィルスに感染したものとして隔離し、非人道的な扱いをする。そこにあたかも水戸黄門的なスタイルで、人権擁護をいいながら警察、病院側をより分けて登場するのが、また米軍の医師団である。そうか、君はそんな酷いことをされたのかね。なぜ人権団体に訴えないのかね?などといいながら出てくるが、実は米軍医師もまた、腹の中に妙な悪巧みを持っているものであったりする。つまり韓国社会で放り出されている階層の人々には(これが本来の意味でのプロレタリアであるが)、二重の意味で保障から遠いということなのだ。

突然変異によって出現した怪獣は、ソウルの人々の不意を打っては襲いかかるが、たしかに動機にしろ、なぜそこで襲うのかとか、理由は全くわからない。何のために出現したのかとか、人間と対立する理由は何なのかとか、そういった説明は全く為されえない。ただ、無闇に、不意打ちに、人間を襲うのだ。襲うというよりも、ソウルの人間社会を、ただ無闇に荒らしてるだけというほうが、確かにしっくりくる。

ソウルの社会に、全く意味不明に、荒らしが発生する。荒らされる方は確実に被害を受けてるわけで、人間の身を守るのにはやっぱり必死である。この荒らしの発生した理由は、ある種の公害にあたっている。環境のことをよく考慮しないで、国を占領(あるいは駐留)している大国米国の権力、そしてエゴによって、この災禍がソウルの住人に発生している。この映画に見られるように、在留米軍と韓国市民の間には、普段から明らかな権力関係の違いがあるのだろう。それは日本で米軍との関係というのとは、おそらくちょっと比較にならい位であるはずだ。そうして起きている環境被害の有様であるが、しかしだからといって、原因はどこにあるのか皆が薄々わかっていても、誰も助けてくれはしない。何処も責任もって娘を助けにいってくれないから、当の住人は自力で、怪獣と戦い、救出作戦に挑まなければならなくなる。お上は全く役に立たないから、すべては自己責任、自助努力によって解決するしかなくなるのだ。

環境の構造から来る災禍を受け、安全から見放されているのは、ソウルの最下層の庶民である。またその見放され具合から、彼らは自力で行動し、問題解決することを求められている。こうして漢江の荒らし対住人の孤高な戦いが繰り広げられるが、最後に怪獣を追い込むことのできた場所は、真昼間に漢江の河原で行われた、反政府デモの集会の最中にてである。この辺の設定が、もう笑えるというか。これが環境公害をテーマにした映画だったのであり、日本でも同様の社会構造の告発が行われたのは、ゴジラにおいても、あれは放射能実験の影響で突然変異した恐竜の生き残りであり(だからゴジラは口から放射能を吐くことができたのだ)、ゴジラが破壊しえたのは国会議事堂であり、やはり左派意識的な当局政府との対立の中から、しかしゴジラにとってそれが正義でも悪でもなく、ただ突然変異した黒い身体に自ら驚きながらも、その内的必然性に従って、大都市の中を突き進んだのだという光景を思い起こさせる。

1971年の作品だが、そういう意味では『ゴジラ対ヘドラ』が、環境構造の問題を告発し、そこで放置された市民たちの姿を浮き彫りにするという意味では、ゴジラの中でも最もシビアに社会派の作品たりえていたのではないかと思う。現在のソウルは、資本主義の先端としてハイテク装備を誇る都市でもあるのだが、そのソウルを舞台にして、日本では比較的前時代の段階にあったような、高度成長的な陰影の面影が、活劇的な舞台になりうるという状況設定が、もうたまらく可笑しいものだ。最後に河原一面にぶちまけられる機動隊の催涙ガス弾ロボットが、なんとも不気味に無機質で、丸っこくてツルツル光っていて、監視社会の象徴的で、その形の面白さに惹き付けられる。なんとも滑稽に魅惑的なソウルのハイテクマシーン、否、ソウルの市民運動とその熱さだろうか。