『ナルシズム入門』(1914年)

  • ナルシズムという用語の起源とは比較的新しいものであることを、まずフロイトは示している。1899年にネッケという人物が臨床的に命名したと示されているが、その使用法の起源は幾つか説がある。ナルシズムは臨床的な記述に使う概念として、大体19世紀末から20世紀初頭にかけた時期に現れている。最初、ナルシズムという用語は、性目標倒錯としての意味を持つものとして使用されたのだ。『ある個人が自分を一つの性対象であるかのように取り扱い、自分の身体を性的な快感をもって眺め、なでまわし、愛撫しながら、完全な性的満足を得ていたのである。』
  • しかしナルシズムにおけるこのような定義は、精神分析の観察の中ですぐさま修正されることになる。ナルシズム的なふるまいとは、他の症状においても、更に日常生活的なレベルでももっと普遍的に見られる事象である。まずこれは、人間の性の正常な発展の一つの段階と考えるべきだという説に展開するが、しかしまだここでも、ナルシズム概念を巡る普遍的レベルにまで到達しているわけではない。『精神分析によって神経症者に働きかけようとしても、ナルシズムのためにその効果が限られるのである。この意味でのナルシズは、性目標倒錯ではなく、自己保存欲動のエネルギーをリビドー的に補強するものであり、すべての生物に部分的に存在するものと考えられるのである。』ナルシズムを人間的行動の指標として根源的なレベルで発見するまでは、フロイト周辺のサークルにおいても幾つかの段階を経ているのだ。
  • まずフロイトは、「正常な一次的ナルシズム」という考え方を採用している。まずすべての人間は子供の時分に一次的ナルシズムを得ている。子供は成長の過程でこの一次的ナルシズムから身を引き離し、現実原則を学習すること、あるいは去勢的な社会化か、理想自我(父)との関係性から自らのポジションを得るような個体化のプロセスを経て、現実社会に適応しうる感覚を持つ、成長する。リビドーの原初的な段階とは、まず自体愛的であったのだと考えられる。

個人においては、自我に相当するような統一体は最初から存在するものではないと想定する必要があると答えたい。自我は発達によって形成される必要があるのである。しかし自体愛的な欲動は原初的なものである。従ってナルシズムが形成されるためには、自体愛に何か別の要素、すなわち新しい心的な営みが加えられねばならない。

  • パラフレニー(誇大妄想)のような症状が疾患として現れてくるのは、自我が対象を喪失した際に、本来は対象のほうに備給されるべきリビドーが撤収されて自我のほうに環帰してくることによるものと考えられる。この、対象への備給を自らに引き込むことによって生じたナルシズムを二次的ナルシズムなのだと、フロイトは考えている。二次的ナルシズムとは、「正常な一次的ナルシズム」に対し、疾患となって現象することになる。(フロイトシュレーバー院長のようなパラフレニーをケースとして対象にしている。)つまり一次的ナルシズムから距離の取り方が損傷することによって、病的症状としてのナルシズムが現象するのだということになる。一次的ナルシズムに対して、二次的ナルシズムとは病的な疎外態である。
  • しかし、ナルシズムという概念が意味を持つのは、別にパラフレニーの場面に限定されない。そうではなくて、正常な自己の把握としてのナルシズムが、より基本に立っている。最初にナルシズムの概念が使われたとき、それはまだパラフレニーを解明し治療するための道具といったレベルに留まっていた。しかしナルシズムの概念とパラフレニーとは、別々に存立している。ここでもナルシズムの概念とはまだ消極的なレベルで出てきているもので、その概念が積極的に社会構造を解明するといったレベルにまでは、フロイトは展開していないのだ。
  • 1914年の論文『ナルシズム入門』において、まだフロイトは、根源的な普遍性としてのナルシズム概念には到達していないのだといえよう。ナルシズムの次元は社会の日陰的な部分であり、そこが実は基準になって社会の動因から交換事象までを規定しているのだという概念的把握は控えられている。ナルシズム的であるということは、まだ人間的な未熟さの一部であり、それは社会の前景的な交換場面では慎ましく隠蔽されているものとしての社会レベルを反映している。しかしその後の社会の交換経済の発展過程とは、このナルシズム的なものの次元に対する正直さというのが、社会の前景としても全面化してくることをより顕わにしていく。交換の場面において、ナルシズムを前提にして人は互いを承認する、また経済交換もなされるのだということは、社会の常識的な枠組としても、現代的な社会形態に至るまで、明らかになってくるものだ。