過去自体の存在論Ⅱ

現在とは空隅を含む時間の存在である。現在とは時間的な前提の上にある、ある浮遊性として想定される。そして現在とは流れていると同時に漏れ続ける存在の進行である。それは空隅を含むが故に、流れていると想像されるイメージで語られるだろう。しかし時間が本当に「流れている」ものであるのかどうかという点については科学的にいって実際には疑わしいと思われている。もしそれを流れというイメージにおいて見るのなら、流れている今現在の時間とは主体にとっては別に気づかれていない。それは別に実感はされないし主体的にも把握されない。

それに気づくと気づかずと時間の存在とは常に現在によって消費されつづけ、そして漏れ続けているだろう。むしろ主体の立場からすればそれを把握していると、自分のものにしていると思っているときのほうが錯覚を抱きやすい。現在とは常に漏出している。現在にとっての空隅の存在とは、それが惰性であるのと同時に主体にとっては自由の根拠にもなることができる。現在の空隅の存在はまた偶然性の存在する理由である。必然性に対する偶然性の、力関係の逆転しうる瞬間とは、この暗闇、この空隅におけるジャンプにある。それ以外には必然性の大きな連関とは曇り空のようにして厚く存在の上を覆っている。

そして過去とはどこに残り続けるのだろうか。過去の存在とは無意識的にそれと遭遇されている場合、それ以外には重力の発する起源的な次元としての想像される過去イメージ、そして無意識的なフラッシュバックとして主体を襲い捉える過去の残余がある。我々の知覚とは、過去によって現在をその都度に、無意識から来る目にも留まらぬスピードによって吟味し、機械的に解釈しながらオートマチックに進行するものである。

過去は経験的な記憶のデータベースとして蓄えられている。行動の一つ一つにおいて、それが自分の記憶の何処の部分との連想やアナロジーにおいて起動している知覚なのか、殆どの場合は主体にとってそれは気づかれていない。無意識かつオートマチックな一連の運動のあり方である。過去とは不安によって主体に気づかれる場合。不安の存在によって過去の特定の固着した出来事の記憶が呼び起こされる場合があり、また快楽や喜びの反復として、それが呼び出されているときもあるだろう。

過去が何かの重力を発する背後的なイメージとして気づかれる場合、そこにはよく解決されていない、引き延ばされた、あるいは破損した記憶のメカニズムの固着が、個人の脳内、記憶のデータベースの中には潜在的に実在していると想定される。

次の日私は先生の後につづいて海へ飛び込んだ。そうして先生と一所の方角に泳いで行った。二丁程沖へ出ると、先生は後を振り返って私に話し掛けた。広い蒼い海の表面に浮いているものは、その近所に私等二人より他になかった。そうして強い太陽の光が、眼の届く限り水と山を照らしていた。私は自由と歓喜に充ちた筋肉を動かして海の中で踊り狂った。先生は又ぱたりと手足の運動を已めて仰向になったまま浪の上に寝た。私もその真似をした。青空の色がきらきらと眼を射るように痛烈な色を私の顔に投げ付けた。「愉快ですね」と私は大きな声を出した。
夏目漱石『こころ』

主体の習慣的な知覚のメカニズムが過去を切り取る際の無意識的で自動的なやり方−傾向性というのは、過去についての解釈のあり方によってそこに影響がなされている。過去とは現在を経過しては過ぎ去る経験的な記憶のデータベースとして、常に解釈の網目によって吟味され振り分けられている。

過去についての解釈のあり方というのは別に一定はしない。解釈の方法それ自体で常に変動し網目を作り変えている。しかし記憶の固着している病巣的な部分にとっては、過去の解釈の方法というのもそこでは固着して止まっている。