過去自体の存在論Ⅲ

1.
ドゥルーズは過去自体を巡る態度のとり方において、ベルグソンプルーストの差異を提示している。まずドゥルーズは意志的な記憶によって構成される現在と関連付けられた過去の想起に対して「無意志的な記憶」の働きというのを対置している。過去自体の存在とは記憶によってイマージュに回収されて脳的に格納されているのみならず、しかしその記憶自体がオートマチックな自動運動を潜在的なレベルでは繰り返し続けており、それ自体でも移動をしているという観点を与える。

過去は過去自体として保存され、取っておかなければならないという過去自体の自立性を言ったのがベルグソンであったが、しかしプルーストの場合はベルグソンとはまた別の過去自体に対する態度を提示しているのだとドゥルーズはいう。プルーストが積極的に示しうる問題とは、このそれ自体において保存されている過去というのを、どのようすれば主体のために救い出すことができるのかということである。

もしもベルグソンプルーストの考え方にひとつの類似があるとすれば、それはこのレベルにおいてである。つまり、持続のレベルにおいてではなく、記憶のレベルにおいてである。現実の現在から過去にさかのぼったり、過去を現在によって再構成したりしてはならず、一気に、過去そのものの中に自らを置かなくてはならない。この過去は、過去の何かを表象するものではなく、現在存在するもの、現在としてそれ自体として共存する何かだけを表象する。過去はそれ自体以外のものの中に保存されてはならない。なぜならば過去はそれ自体において存在し、それ自体において生き残り、保存されるからであり・---これが『物質と記憶』の有名なテーゼである。過去のこのようなそれ自体における存在をベルグソン潜在的なものと呼んだ。
ドゥルーズプルーストシーニュ

プルーストが「失われた時間を求めて」において探求しているものとは、過去と向かい合おうとする自分自身および方法論的主体としての我々そのものの救済にある。救済とは過去自体と対峙する我々にとって如何にして可能な内省となりうるのか。プルーストの目的とは、過去を再び現在と未来のために救済することにあるのだ。それはベルグソンの客観主義の更にその先にチャレンジしてみる試みにあたっている。

過去はそれ自体で純粋な形で保存されなければならないのと同時に、過去自体の次元とは無意志的な記憶の働きによって、主体には気づかれないし主体のコントロールとは外れた場所で、しかしそれを記憶する脳と身体を所有する個体が生きている限り、過去自体の活動もそれ自身で続いているものだ。

個体が生きている間はその過去もまだ生きて続いている。ドゥルーズによれば、過去自体の存在論が再び主体にとって積極的に回帰してくるとき、その方法となるものとは、主体の意志的な記憶の統合力に頼るものであるというよりも、それはこの無意志的な記憶の働きに身体が気づき、そこに身を重ね合わせる二重の時間の運動を内在的に実現することによってである。過去自体とは、それ自体で活動を持続させている審級であるがゆえに、それは潜在的なものであり続ける。

2.
我々は自分の過去を如何にして救うことができるのだろうか。自分の過去とは個人において常に特殊な過去である。そのような過去自体を指して単独的な存在である。ドゥルーズプルーストに倣って立てる問題とはそのような問題である。過去とはそれぞれ個人の内在性において単独的である。現在と過去との二重性において、それぞれの運動を二重に重ね合わせることによって過去を救い出す。

ドゥルーズプルーストにおける、失われた時間の探求とは、そのような過去への内在性が、真実を発見するためのプロセスであるのと同時に、ある習得の過程に重なっていると指摘している。プルーストがとり憑かれているものの正体とは、何よりも真実への意志である。しかしそのような真実−真理の存在とは、習得の技術的なプロセスの時間性によって媒介されている。そしてプルースト的習得apprentisage (修業、試練的な習得の意)とは未来に関わるものである。しかしそれはどのような種類の未来なのだろうか?歴史の終焉を認識しうる成熟、末期の眼的な境地において見出されるそのような時間性のプロセスとは、しかし、もはや未来の存在しない場所での将来、未来のない場所での未来においてであるだろう。

自分の過去を救い出せるものとは結局、自分しかいない。そのような辛い作業にあたって決して他人には頼ることはできない。人とはそういう意味で単独的であるのだ。

3.
それでは時代的にも(70年代までのソビエト・ロシアにおける言説的な流通量の幅と限界を考えて)明らかにベルグソンを読んでいて深く影響されていたのだろうと思われるタルコフスキーの映画においては、自由の概念とはどのように捉えられていると考えられるだろうか。

タルコフスキーの提出するイメージの中には自由についての映像化された見事なイメージが特徴的な形で反復され出てくるのを発見することができるはずだ。それは作品の展開の中では要所となる繋ぎのシーンで出てくる、人間が空中浮揚する時のイメージである。作品の時間的進行の渦中において、登場人物が瞬間的な、あるいは束の間の自由というのを享受する空間というのをタルコフスキーは常に用意しているだろう。

惑星ソラリス」の中でいえば、心理学者のクリスが過去の妻ハリーの亡霊ならぬヴァーチャルに復活した生き姿とともに一定の時間を生活して過ごし、ヴァーチャルな彼女の身体にも慣れ、少なからず安定感と愛情の転移も復活させていた時期。彼らのヴァーチャルな共生には幸福感も復活していた。宇宙ステーションの中の構造上、ソラリスの軌道上にあって一日に設定された時間軸の夕刻の五時にあたる時刻には一時間ほど船内を無重力にするための時間帯が設けられている。夕刻五時にクリスとハリーの二人は船内の図書室で待ち合わせをする。語り合う二人には自然と無意識のうちに昔と同じ安心感も訪れる。

過去の記憶と現在は不連続なる断崖の淵を超えてそのとき見事に調和し打ち解けていた。過去と現在は懐かしい安定感の中で一つに融合していた。五時を告げるアナウンスがステーション内に響く。無重力の時間が来た。クラシック音楽の流れる図書室の中で二人の身体は静かに浮揚していた。それが彼らに訪れた短い幸福の時間の復活だった。

空中浮揚のイメージとは、過去から連続してくる記憶の体積の流れと現在の時間軸というのが、調和によって訪れる瞬間である。そのときそこの登場人物というのは、時間の流れに対して運命の感受のようにして受動的であり、受動的であるといってもそれは決してマゾヒズムではなく、道徳的であるというわけでもなく、特に筋肉努力の感覚をそこに注ぐ必要もなくとも、全体的な時間と空間の流れに身を合わせ、そこに自然に浮くことができる。このとき浮揚とは自由の実現された調和体−ハーモニーの実現のイメージである。

ドゥルーズの内在性や生成の奔流の「純粋な現前」といった概念をデリダ的批判(脱構築的読解)へ直接的に曝し、ドゥルーズを「現前の形而上学」といった廉で批難するといった衝動には、しかし、抵抗せねばならないだろう。そうした批判は単純に誤っているというよりも、むしろあまりにも「正鵠を射すぎ」ており、またその結果、その標的をあまりにも直接的に打撃することによって論点を見失ってしまうからである。ドゥルーズが表象に較べて現前に重きを措いていることは言うまでもない、だがまさにこの「明白な」事実が、ここでは根源的な誤解が論じられているということを白日のもとに晒してしまう。そうした批判で見失われることは、デリダドゥルーズが、共通の土台を分け持つことなく、異なったまったく相容れない言語を話しているという事実である。
ジジェク『身体なき器官』