重力の幻想

1.
「ドイツイデオロギー」の冒頭においてマルクスはこのように宣言しているものだ

人間は自分たちが何であるのかとか何であろうとしているのかとかについて、自分たち自身にかんして間違った観念をこれまでいつも自分たちの頭の中にこしらえてきた。神とかまともな人間らしい人間とか等々についての自分たちの観念にのっとって彼らは彼らの関係を律してきた。彼らの頭から出た怪物は彼らの頭越しに大きくなった。自分たちの産物の前に創造者である人間は屈服した。人間達にのしかかって彼らをいじけさせているもろもろの妄想や観念や教義、妄想された存在者どもから彼らを解放しようではないか。このもろもろの思想の支配に反逆しようではないか。これらの妄想を人間の真のあり方にかなった思想と取り替えることを彼らに教えようではないか、そう或る者は言い、それらの妄想に批判的態度を取ることを教えようと他の者は言い、それらの妄想を念頭から追い払うことを教えようと第三の者はいい、---そしてそうすれば、今ある現実は崩壊するだろうというわけである。・・・或るけなげな男が、あるとき、人間が水に溺れるのは重力の観念のとりこになっているからにすぎないと思い込んだ。この観念をなにか迷信的な、なにか宗教的な観念だというふうにでも宣して、それを念頭から追い払えば、水難のおそれなしと考えた。生涯この男は重力の幻想--その有害な結果についてはあらゆる統計が彼に新しい数多くの証明を提供した--をぶち壊すためにたたかった。このけなげな男がドイツの新しい革命的哲学者たちの典型だったのである。

存在論をめぐる内省的で自己言及的遡行の無限退行の罠から、生の飛躍が現実にそこで起きる実践性への移動とそこで開示される開拓されるべき新しい空間性としての社会性の発見について、機能的なる観念操作の転換と行動によってそれを成し遂げんとすることを、マルクスマニフェストしているといえる。

ここでマルクスは「重力の幻想」という興味深い言い方をしている。社会的なる諸関係というのが革命的哲学者の脳裏に反映されるとき、様々なる人間的諸問題について、それの原因というのを突き止められ、批判され、打倒されようとする。社会の中で実際に実在しうるそのような人間の人間的に足を引っ張られる一般的な現象の傾向性として、重力のような社会的実在というのが、まず仮定されるだろう。人間の社会にはある種の重力の観念が不可視に機能しているのだ。

2.
それは目に見えないが確実に人間を構成するのと同時に蝕みもし、我々はそれに依存しているのと同時に犯され続けてもいる。しかしそれが社会的な意味での重力に相当する実在であるのだとしたら、それは本当にあるのだとしても、現実的には取り除くことができるものではなくて、ただそれの存在についてまず気がつき、そしてその従い方から扱い方というのを、人間は覚えるものでしかないだろう。

重力とは地球−大地の必然性であり、そのメカニズムを科学的に解き明かすことはできたとしても、最終的にそこに逆らうことは不可能である。 不可能であることを知りつつ、そこに可能的なシステムの構築を働きかけることによって、道具的な物質性の機械的に連結を究めていく中から、重力の確実な存在から自由になりうる隙間の存在について、その幅に大きな連続性を機械的な結合の過程として与えていくことが、人間的なる自由の領域の幅を拡大していくことにあたっている。

我々が泳ぎを覚えるのは、経験的で盲目的な試行錯誤の中から、一定の経験的な知の形態というのを、危険性とその逆の有効性の認識の差異として、感覚的、身体的なレベルで覚えていく過程においてであった。最初は重力という概念さえ知らなくても、経験的なレベルで、絶対的に踏み入ることの出来ない危険性の認識、およびそれの他者からの伝承された認識として、水の中の泳ぎについて、人間は一定の方法論を安定的に修得したのだろう。

それらが段々と、単なる教訓や警告のレベルからは進化した、次の段階の宗教的な知識の認識、そして船の工作などにも関わっただろう技術的な知の伝承的な認識、そして科学として分析的に、数値的、数学的に使える認識へと、人間は社会的な知の形式として進化させてきた。知は単なる教訓的伝承から進化していくと、体系的で総合的な知識の認識へとそれらは包含されていき、重力という概念的な認識の発見と把握へと定立されていったのだ。

あくまでも解明された重力の仕組みについてその性質を利用することによって、マルクス以後の二〇世紀の科学で言えば、飛行船や宇宙船を遥か彼方にまで打ち上げることにも成功したといえる。しかし、マルクスがいうに、重力とは観念に反映された幻想であるのだから、そこから自由になるには(つまり水の中で溺れないようにある人がなるためには)、この幻想をなかったことにすれば解決しうるというようなタイプの哲学者的な回答が傾向的に見られるものだというのだ。

3.
しかし、この「重力」とは、現代的に言えば何に相当するものだろうか。それは「セキュリティ」とでもいうべき概念だろうか?何かに反対するあまりに、しかしその何かについてなかったことにしてしまうことは出来ない。客観的な社会法則の実在としてそれは不可能なのものだ。ましてや念力でそれから自由になれるわけももない。突き詰めていけばそれは信仰や希望によって重力から自由になれるという発想にさえも批判の行き先というのは及ぶだろう。

主観の思い入れや投影を自由にする哲学者の思惑とはよそに重力とは、それはメタファーとしても、社会の内在的な法則性としてしかと存在している。重力の存在とは何処から由来して来ているものだろうか。社会的な磁場を不可視に構成する人間的な磁力の存在をさして重力というメタファーを使いうるならば、セキュリティのような意識こそは、人間的なる共同体の発している重力といえる。怖れの感覚について本当はなかったことにすることはできない。

4.
人間の生活習慣にとって経験的なる現実性として、客観的な実在において必ずそれらは潜在的な次元にはある。死との隣接にある絶対的なものとして通過されてきた危険性の知覚として経験的な過去とは、過去そのものとして確固としてそれ自体で存在している。

習慣的な過去で在るが故にそれは目に見えない存在という意味では、社会的な共同性の防衛機制と重力についての意識の存在とは同じものである。おびえの経験についてなかったことにすることはできない。危険性の認識とは最も明瞭に、人間にとって絶対性の経験を構成している過去だからだ。だから認識論的な次元でも、そして実践的な社会生活の次元でも、セキュリティはある、というのと、セキュリティはない、という時のアンチノミーを実現しなければならない。

防衛機制とは自我の構造にとっても社会的な共同性にとっても本質的なものである。それならば自我の機能の中核にあると考えられるプライドを巡る意識こそが、要するに自我を一個の小宇宙としてのセキュリティの体系として統合している機能であったのだ。

防衛機制の意識とは社会的な共同性にとっては、道徳意識を支えるはずの無意識的な根幹を大きく形成する。そこまでみれば信頼関係や友情関係の基本構造自体が、そもそも本質的には元からセキュリティというのが、その正体であったということもできるものだ。

5.
重力(必然性)を認識する意識とは、慣習的な身体のレベルで言えば、緊張であり、収縮の過程にあたる。しかしリラックスとしての忘却のみならず、理想主義的な革命啓蒙論としても、セキュリティ・バリアの意識とは何処かへと吹き飛ばされてしまうことが夢想される。それは自由を標榜する幻想に憑き物の衝動的な傾向性として内在している。

意識的な立場をまた破壊する立場の意識とは、収縮によって緊張に凝り固まった意識の記憶痕跡を、物象化的に想起しては対抗的に散らしてしまおうとする衝動の集団心理学的な現象として出てくる。

それは脱力や破壊行動によって集団が共同幻想としての弛緩の過程に、幻想的に酔いしれようとする儀式といえる。セキュリティ・バリア・フリーの幻想とはやはりそこにも何かの明瞭な社会的起源があるはずなのだろうが。

しかし恐らく本当の弛緩の過程とは、集団的に訪れるものというよりも、すぐれて個人的な身体性の問題であるはずだ。即ちそれは内在領域の問題であるということだ。

集団心理学的なる幻想の過程によって、欺瞞とは更なる欺瞞によって、本当の凝り-凝固された流れの滞留−の正体とは収縮の残骸によって萎縮したままに、また何処かへとその在り処が隠されて見失ってしまった。だから滞留の正体を真に発見しうる意識の営みとは、また別の作業にあたっているはずである。