スガ秀実の『LEFT ALONE』

2005年2月にスガ秀実を扱った映画「レフトアローン」が劇場公開になった。この映画は六八年革命論というスガの自説を中心にして日本の「左翼」というイメージにまつわる作家から活動家までを彼のセレクションによって選定し、各人のインタビューを中心に構成され、彼によって六八年的革命から現在まで持続しているはずだと仮定されている左翼の在り方について、ある種の局面から切り取られたドキュメンタリーを与えている。監督は井土紀州である。そこには『左翼』についての、あるイメージを想定するために、どれだけの恣意性が混じっているとはいえ、これは全体としての興味深いインタビュー集になっている。

六八年的革命−しかしもしそのようなものが本当に存在したのだとして、それはどのようなものだとスガはいうのだろう。ここでまず立ち止まるはずの我々が最初の懐疑を抱く戸惑いは、そこに在るイメージの存在構造を根底から捉えなおすため、我々は革命の歴史についても検証して振り返り、紐解いて見る必要があるのだろうて。革命を六八年によって切り取りそこを特権化させた点として現在までをリニアに位置づけ、そこからある転倒した円錐の図式を描き出すことは、確実にある形而上学のイメージを与える。形而上学のシステムにまつわる絶対的な虚構性と捏造性にまでそのような試みとは加担し、そして共犯性を演じる覚悟さえもそこでは選びとられることになる。

しかしスガ秀実はその点について決して躊躇することはできない。スガ秀実にもはや余分な時間は与えられていないだろう。そこの手前で立ち止まってしまうことは、その次に、ひょっとしてもしかしたら見えるかもしれない、新しさの展望の可能性について閉ざしてしまうことになってしまう。転倒されて屹立させられた円錐のイメージ。そのようなフレームをあえて選び取り、歴史と既に言われている幾つかの時代的な事象について意味を付与し、そこから派生して生成されるイメージを見つけては描写しようとする。映像に収めようとするだろう。そして最終的には反復されるフンコロガシ(=これの出典は花田清輝が使ったスカラベサクレであるのだが)のイメージを発見し、アニメ化する。

もちろんそのような転倒させられるべき頂点として選び取られてきた「六八年」なる対象とは、いつものご多分にも漏れずに立派な虚構点である。蓮実重彦が指摘しているように、本当はそこには何も存在していない。スガ秀実が一つのフィクションを自分の通過してきた日本の現代史的な舞台に適用しようとするとき、そこには無理な押し付けがましさが起こっている。このような無理な押し付けがましさとは、部分的には援用として、これはまた柄谷行人が作ったはずの別のフィクション=六十年歴史回帰説を呼び寄せることができるだろう。ここでまた左翼と呼ばれる現代史的なイメージの連鎖には共犯性が一つ多く付け加わるのだ。

六八年の形而上学を作った起源とはウォーラーステインにある。ウォーラーステインの書いた世界システム論である。それは六八年を世界革命として捉えることを示唆し、アメリカのリベラリズムがその補完的な関係にさえ組み込みえた東欧の社会主義システムの共倒れとして、一大世界システムの破綻を明瞭に、六八年に先進的な西と東の幾つかの国家に起こったデモンストレーションの波やその弾圧事件によって表現されたという説を、問題として提示したものだった。

ウォーラーステインによって単純化された図式は、そこに孕むあまりにも楽観的といえる底の浅さゆえに、その後68年以後の左翼が辿ることになった喜劇的なものと悲劇的なものの入り混じった道筋の滑稽さについても、そこからウォーラーステイン的なものの責任として素描することができるものだろう。

このような左翼的言説の軽薄さを幾つも目に付けることに我々のほうでも慣れてくるにつれ、しかしそこに惰性ではなくして何か少しでも積極的に立ち上がることを見れるシンパシーの契機を、現在的な知識人は果たして探り当てることができたのだろうか。何かそれら軽薄さと喜劇性の流れとして表面的に流されては消えていく、左派的な連動性というのを、一言で捉える事でもって、明瞭な時間の循環していく系譜を水晶のように結晶化した実体として、概念的に我々の掌でも転がせるようにはならないのだろうか。

そこで最もシンプルに凡庸化しうるがゆえに、広くプチブル的な大衆性の上でも共有できる合言葉になる概念=呪文のような掛け言葉として、この「六八年」という一句はありえるのだろう。