イメージと左翼

ウォーラーステインは『反システム運動』の中で次のようにいう。

世界革命はこれまで二度あっただけである。一度は1848年に起こっている。二度目は1968年である。両方とも歴史的失敗に終わっている。両方とも世界を変化させた。両方とも計画されたものではなく、深い意味で自然発生的なものであったという事実は、それが失敗したということと世界を変化させたという二つの事実を証明するものである。
『LEFT ALONE』書籍版

たとえば村上龍のようにスガ秀実が、それについて「69」と名づけることは可能だったろうか。それについて一意的に名指してしまうことの恣意性、任意性の罠から理論的な設定というのを免れさせることはできないのか。しかしスガはここで妙な意地を張る。それについてあえて68年と名づけることは何を意味するものだろうか。そして何処に連鎖として、因縁として、系譜として繋がり何処の川から海へと流れ込むことになるのだろうか。

それは単にウォーラーステイン世界システム論の延長線上に自説の革命継続説を置くというだけのものでもない。それを68と名づけることは、要するに柄谷行人の六十年歴史周期説との類縁性を確保するものにもなるのだ。8という数字の構成する円環とはそのまま1968年から120年差し引いたところの1848年に接続することができる。これはヨーロッパにとって最初の全体的な近代革命の指標として記述されることになる年だ。このあまりにヨーロッパ的といえる1848という数値から120を足すということは何を意味するかといえば、120ならばそれは60年の二倍にあたっている。60年の周期説と1848年を組み合わせれば、そこからこの1968というインデックスが導き出されるはずだ。

実際この1968という数字を根拠にしてスガと井土紀州は映画を撮り始めることになるのだが、最初から彼らは1968に対する抵抗と直面することになる。彼らの無防備な前提に抵抗を加える様々な仕草が、映画の中の登場人物の各々からは与えられる。そのような光景はしっかりフィルムにも刻まれているのを我々は確認することができる。68という数値によって円錐を組み立てること。そしてそれを他人に投げかけることで現実の現代史を捕獲しようとする試みは最初から至るところで挫折し続ける。

コメディの設定のようにズッコケた像を演じ続ける。やがて、井土とスガの二人組鞍脚によって繰り広げられ反復される、そのような空虚な宣伝行為、教育と啓蒙の行為、プロパガンダの行為とは、その明らかな空回りの連続性の自覚によって、自己言及的な可笑しみを生み始める。

68年の逆立した円錐体とは、かくしてはじき返される。現在という凍りついた平面の上で独楽の様に回転を漸次的に滑らせていきながら、それは抵抗物の存在に弾き返されてはまた回転の方角をずらしながら滑っていく。現実の唯物論的な反抗の手応えを登場人物の各々から次々と突きつけられながらも、しかし井土=スガのコンビはその円錐に回転を与えざるえない。最初に作った前提に律儀に向かい合い、回転させるしか、映画のストーリーは展開のしようがないからだ。

68という数値は映画「レフトアローン」にとっての原理である。やがて68の円環とは自己言及的にそれがフンコロガシのイメージに重なってくるだろう。ここでフンコロガシのイメージをアニメとして導入することは、唯一この映画の回転を救いうるイメージ、虚構的前提に二人組が盲目に埋没しながらも、そこに抽象的な外部を開示しうるイメージとして、映画の中で特権的地位になって君臨しはじめる。反復をはじめるのだ。

68年的円環の形而上学とは、かくしてフンコロガシの形而上学になるのだろう。それはこの映画「LEFT ALONE」と最初に抽象的に題された映画の進行過程=そのまま制作の過程に救いを与えているユーモアなのだ。