過去自体の存在論

過去が記憶の損傷として固着しているとき、そこでは悪い重力を発しつづけている。過去とは記憶についての解釈によって主体にとって成立している。過去とは錯綜する解釈の体系によって身体的な内在を構成している。

そのような解釈とはまず第一義的にはイメージである。イメージといっても単なるイメージではなく、それは身体的イメージ、単なる映像や表象で存在するだけではなく、身体的に深い臍の緒をつけた内奥的に繋がる神経的な感覚表象として、個人の身体の中では生き続けるもの。ゆえにそれは生きているイメージであり、身体的な感覚として切り離せないところで、うつろいやすい微妙な生態系を独自に形成している。それは論理的に合理的なものでは決してありえない。むしろ偶発的な偶然形成の絶対性によって身体に根を下ろしているイメージの連想的な連合体系である。

過去が損傷によって身体の中に滞り、処理しきれない残余としてのこりつづけるとき、それは過剰な存在感の重みを現在的な主体の身体の中で発生させている。固着して損傷したイメージとはトラウマの存在である。過去がそのような重みによって現在的な主体の体制を脅かしているとき、過去のイメージとは悪い記憶を構成しており、過去のイメージはブラックホールを構成している。ブラックホールは独自の重力を発している。独自の影響力を身体に対して与えている。ブラックホールの存在とは身体的な内奥において病気として存在している。

ブラックホールは身体的な記憶の内奥において独自の重力を発しつづけている。ブッラクホールの重力は主体が手にとるものすべてをその単数性の中に呑み込もうとする。そういう微妙で厄介な重力を主体に影響力として及ぼそうとする傾向性である、惰性であるから、そのような記憶の損傷地帯はブッラクホールとして存在する。

しかしブッラクホールとは別にそれ自体で存在しているわけではない。ブラックホールとはホワイトウォールとのコントラストによって存在している。それはドゥルーズ=ガタリが「顔貌性」(ミルプラトー)の章で示した通りである。

夜明けまえの暗闇に眼ざめながら、熱い「期待」の感覚をもとめて、辛い夢の気分の残っている意識を手探りする。内臓を燃えあがらせて嚥下されるウィスキーの存在感のように、熱い「期待」の感覚が確実に躰の内奥に回復しているのを、おちつかぬ気持で望んでいる手さぐりは、いつまでもむなしいままだ。力を失った指を閉じる。そして、躰のあらゆる場所で、肉と骨のそれぞれの重みが区別して自覚され、しかもその自覚が鈍い痛みにかわってゆくのを、明るみにむかっていやいやながらあとずさりに進んでゆく意識が認める。そのような、躰の各部分において鈍く痛み、連続性の感じられない重い肉体を、僕自身が諦めの感情において再び引きうける。それがいったいどのようなものの、どのようなときの姿勢であるか思い出すことを、あきらかに自分の望まない、そういう姿勢で、手足をねじまげて僕は眠っていたのである。
大江健三郎万延元年のフットボール

この一節は大江健三郎が一九六〇年代の時代に彼の三十代の時期に書いた長編小説の冒頭部分である。小説の主人公はシチュエーションにおいて大きく作者の実生活と重なる部分も想像されながら二重化された想像力をフィクションによって構成しながら、この作家の内的感覚を描写する試みが冒頭から延々としばらく続いている。この時期の彼において「熱い期待の感覚」というのは何なのだろうか。熱い期待の感覚と呼ばれうるものの実体。それは未来への信仰のことだろうか。あるいは未来への信仰の名残としていまからだの中に与えられている残余としてのそれである。

自分の人生の過程において未来志向の時間性が失われる時期にさしかかるとき、人はそこで根本的な身体的変化を経験するものである。「熱い期待の感覚」とは未来に関わるものであった。期待の感覚が自己の核として把握されていたとき、それはもう存在しない実体であったのかもしれないが、それは時間性の中で想像された内在的な核としての自己であった。

万延元年のフットボール」において大江は時間性と自己存在の関係が、彼の年齢的な進行も境にして、百年前にあったという故郷の田舎の村の一揆に重ね合わせながら、単純な直線性としての存在と時間の把握観念より、それが外的な捩れを受けてシフトしていく過程、期待−希望−存在の関係において自己が微妙な成熟を受ける過程を記述しているものだ。