命令の地位Ⅱ

命法連関=命令−服従の二項形式の中にあくまでもその機械連関の延長上に、自由を実現すべきであると考える。その逆にあたるのは自由とはこの命令ー従属連関の外部にこそ、それは目に見えないものとして存在しつつも確実にあるものとして認めるべきであると捉えることだ。

前者においては、根源的命令の声を何処から聞くことが、共同体の内部には止まらずそこには従属しない、真の存在論的な次元の命法を自己に課し実現すると考えられているのだ。もちろんそれは存在論的な呼び声の名称として別の場所でも馴染みのある論理構造ではあったのだが。

命法に内在するものとは自己拘束である。それは自己拘束であるのと同時に他者拘束であることを等価に実現し続けることによって、社会的な全体性と安定性を維持するだろう。命法が内在するものとは、先験的に次の行動を予期して取り込んだ上での自己−収縮にあたる。しかし自由とはこの収縮の弛緩の経験として与えられる。収縮であるのと同時に弛緩であるという、同一のものの逆ベクトルにあたる二つの運動性を同時に実現させる。これは更に高次の自由の実現にあたる。それは収縮すると同時に弛緩する。矛盾した運動を常に実現し続けることによって自由の可能性を保障するもので在り続ける。

「特殊−一般」の項で主体を構造的に捉えることが一般性のシステム条件であり、この一般的=類的なシステマティック連関を超越しうる契機、認識論的な前提とは、「個体−普遍」の項によって捉えなおし、このシステマティックな循環をズラシ、切れ目を与えることによってであるというのが、単独性の論理として柄谷行人によって謂われてきたものだ。

それは共同体を批判していくことと、そのような批判的主体性の方向が更なる全体的な規模の大きい超越論的な次元に歴史的−普遍的に根ざすことによって、更なるメタレベルの価値、超越論的な次元を主体的に実現させる方法論であるということになっていたものだ。

しかしここで考え直さなければならないのは、そのとき単独性の前提として謂われる「普遍性」というのがどのようなものなのかということだろう。「普遍性」とは本当に存在しているものなのか。あるいはそれは存在しているにしても、どのような意味でのみ実際には限定的に存在しうるものなのか。元は宗教的な意味の前提として永遠とか不死を意味付けんとするために、このような普遍性という概念が呼び出されシステマティックな道徳哲学として機能していたものだと系譜的に見ることができる。

しかしもちろんそのような古典的宗教性の意味で普遍という概念を継承することは現代的には意味をなさない。普遍とは永遠に確実という意味よりも、単に今、個体がいる環境について、それより広い世界が別の次元には確実に存在しているということを示すのみの大きさの広がりを意味する概念、といったもののuniversaliteという概念に止まる。

宗教的な意味での普遍性とは本当は存在していない概念であるのだから。元からそれは一個の虚構として宗教の成立現場に呼び出されていたものであり、そのような虚構に真であると信じ込み、共同幻想的にも思い込みに没入することの中に、過去これまでの社会システムにおける宗教概念の意味が機能していたのだ。

神の存在証明によって哲学のシステムを開始して宣誓を誓わせるシステムというのが、近代哲学の制度的な確立の時点では当然の営為のように権力をもっていた。アカデミズムの原初的なシステムとはそのような虚構の強制力的な前提として歴史的には存在してきたのだ。そしてそのような虚構の保守性についての厳守こそが、原理的な契約といわれてきたものの正体であったはずだ。

しかし今では普遍性とは、単に歴史性という意味しか持ち合わせることはできない。それは歴史的な全体性のことである。そして所詮は歴史的なものに過ぎない。必ずしも付き合わなければならない義務化された過去全体のことでもないのだ。普遍性に過剰な意味付け、そこに主体が決意的に投企しうるような大文字の観念性もロマンチシズムも使命的で観念的な強制力もないものだということは割と明らかに証明されて社会的にも共有されている。

普遍性という言葉の重みによって主体を必要以上に駆り立てることは出来ない(自己においても他者においても)という事実性は、社会の一定の成熟の証であるリベラリズム的な前提としてももはや明らかになっているものだ。

というか、普遍性という言葉に重みの求心する重力を感じ取ってしまう感性自体が歴史的なものだったのだ。過剰なる普遍性の意識とは系譜的に遡って見れば、元々は権力体制のシステマティックな嘘の部分、虚構連関を全体的に支えるために発明されていた機能的な意味概念であった。つまり普遍性とは元を正して見れば、嘘であり、幻想を与えることによって共同体、あるいは全体性の体制を鼓舞したり維持したり言い聞かせたり宥めたりするためのものだったはずである。

機能する神話形式として、嘘であり幻想を社会的に胚胎させることを必然的な機能にしてきたはずの普遍性概念の実在である。そして近代科学とはそれ自体も幻想であることをやはり孕むのだとしても限界まで幻想の幅に近づいてはその枠を外し続けた。共同幻想とはそれが虚構であるが故に、人々の道徳の意識を抽象的に基礎付けることができた。共同体宗教としても、更にそれよりも抽象化を複雑にこさえられて、秘教=密教化した世界宗教の形成においても。そのような虚構の姿とは別名で「奇跡」と呼ばれることも出来るだろう。

しかし哲学的懐疑の正確な行き先というのは、嘘と幻想から、人を自由にすることであると考えるべきである。普遍性とは今では、正確には、単に相対的な広さ、拡がりを示唆することのできるという意味での、宇宙論的という概念に過ぎない。それ以上に普遍性概念に過剰な意味付けを担わせることは、まずシステマティックな嘘、システマティックな詐欺行為の存在をこそ、その中に直観すべきである。

批判の達成度として歴史的に見晴らしの良くなった倫理学の立場で言えば、もっともついてはいけない種類の嘘、悪質で病的な種類の嘘とはこのとき、『普遍性』という名前をタイトルとして自称することによって生じる嘘のことなのだろう。共同体に対して批判的であり単独的に対峙するということは、このとき、普遍性という概念の前提からまた違った意味での新しいシフトを必要とする。

直観。ベルグソンは直観を筆舌に尽くせない呼びかけ、感情的関与、あるいは生きられた同一化としてでなく、紛れもない方法として考える。この方法が自らに課すのは、まず問題の諸条件を決定すること、すなわち偽の問題またはまずい立てられ方をした問いを告発し、そのもとでしかじかの問題がそのようなものとして言表されることになる変項を見つけ出すことである。直観が用いる諸手段は、一方では、所与の領域において異なる本性をもつ線にしたがう現実性の切り分けまたは分割であり、他方ではさまざまな領域から借用された、しかも互いに収束する線の突き合わせである。解答そのものがそれに依存するようにひとつの問題を適切な位置に導くのは、この複合的な線形的作用であり、それは分節に沿って切り分けること、そして収束に沿って突き合わせることに依存している。

ドゥルーズベルグソンへの回帰』アメリカ版のための後書き
『狂人の二つの体制1983-1995』