命令の地位

命令−−つまり命法の形式とは、社会の中で偏在している。我々は命令の存在について、それと知らぬ場所でもそれと知らぬ瞬間に、無意識的にも出遭い続ける。また無意識的にも再生産し続けているものだ。我々のひとりひとり個人の存在とは、そこでは命令される存在であるのと同時に命令をする存在であり続ける。複合的で含蓄的な絡み合いの中で、決定不可能な形でそれら命法の形式とは、人間的な存在の形式を基礎付けている。命法とは何よりも言語の形式として存在している。

メッセージを言文の形式に込めたときに、もうそこには既に言語の歴史的な背景としての命令形式を、言語的にも単語の順列組み合わせの配分の中から、我々は選び続けている。これら言語の中に宿命的に内在する命法の形式に何か統一的な方向付けを与えようとしたとき、要するにある種の有機体主義的な実践的組織論の発想も生まれるのだろう。

言語的な社会配分の内在の中に究極的な目的として、自由であれという命令を組み込むことによって、我々は正確な全体性と超越論的な統覚の方向付けを勝ち取ることが出来るという仮説だ。しかし果たしてそれは本当だろうか。自由もやはり、この命令性の機械的連関の中に内在して埋まっているものだというのだろうか。

主体性を抽象化していく営みとは全体性を抽象化して研ぎ澄ましていく方向付けに重なる。理論的な主体性の構えとは全体化のレベルが高みに達するに応じて、そこに根源的に求心的なる重力の存在を見出そうとする傾向があるのだ。

柄谷行人によってそこで見出された根源的なる主体性の目的とは、義務という重力の磁場の中心に据えるべき概念を、自由に設定せよということだ。そのとき自由の概念とは限りなく抽象的な透明性を帯びると同時に、あらゆる他の存在、他の概念というのを、その透明性のパラドキシカルなる重力の反転の現場によって、皆、抽象的に吸い上げることが出来るかのような、そんな全体的な統合性の錯覚さえをも可能にするだろう。

根源的な義務とは根源的な意識的重力の磁場を用意することに繋がり、そのようにして人間の意識によって用意されたる根源的目的の磁場とは、限りなく透明で限りなく抽象的な放出力を兼ね備えているように見えたのだ。しかしこのとき目的にあるとされた、彼岸に設定された自由の実質とは限りなく空虚なゼロ点であるだろう。

難しいのは、指令語のステータスと広がりを定義することだ。言語の起源を問題にしているのではない。なぜなら、指令語は単に言語の機能であり、言語と同じ広がりをもつ機能にすぎないのだ。

われわれが指令語と呼ぶのは、明瞭な言表の特別なカテゴリー(例えば、命令法)ではなく、あらゆる言語や言表と潜在的な前提との関係、つまり、言表において実現され、また言表においてしか実現されることのないパロールの行為との関係なのだ。指令語はしたがって命令にのみかかわるのではなく、「社会的義務」によって言表と結びつくあらゆる行為とかかわるのだ。直接、または間接にこの絆を示さないような言表は存在しない。一つの質問、一つの約束は指令語である。言語は一定の瞬間にラングにおいて機能する指令語の集合、潜在的前提、またはパロールの行為によってのみ定義される。

『ミル・プラトー言語学公準

人間の人間的身体性とはかくして命令に飢えているのだ。そこにはもはや、病としての義務の意識というのさえ見受けられるはずだ。義務そして命令というのが、人間の哲学的で道徳的−倫理的なエロスの喚起条件として深く屈折している。要するにそこまで見れば、歴史的には啓蒙主義の存在理由さえが一個の病気でありつづけてきたことさえも見て取れるはずだ。それは知識の病であり、知性の自ら抱え込むところの宿命的な病気でもあったはずだ。命令されることを惰性的に待ち続ける受動的な身体であるのと同時に、何かの拍子に自らが能動的な契機を勝ち得た途端に今度は他者に向かって命令したがる身体である。

身体の構造的な傾向性として人間的身体の現実とはそのようなものであり続けた。そしてそれら命令の根源的なメカニズムとは、言語の所有する基本構造にこそ内在する。自分が、命令されるか、あるいは命令するか。人間的身体性の惰性とはかくして命令の循環に原信憑としても取り憑かれているものだ。そこではもう既に命令することと従属することは存在にとってのエロス的な感受の次元までを基礎付けているものだ。

しかし果たしてこの命法循環の外を想定することは自由にとってどのような意味を持つことなのか。外に出ることは可能な実在であるのか。あるいは命法循環に外部があると考えるということ自体がおかしいのであり、この命法循環を現実社会の宿命として取り込んだところから実践的な哲学を開始すべきというのだろうか。