自由と義務Ⅲ

ベルグソニズムでいえば、精神とは収縮であり、物質とは弛緩のことである。それは同一のものにおける収縮と弛緩の状態にあたる。それではそのように捉えなおすとき、義務とはなんだろうか、義務の意識とは自己の拘束であり、収縮にあたる。

そこに収縮するための緊張した核の存在が確かに実在するのならば、収縮することは自然に従うことであるのであり、自然なドライブの自己解放であるが故に、そのような欲動の動きとは自由の動きにあたる。そもそも同一のもの、同一の存在、同一の持続の立場にとってみれば、自由とは収縮にあたるものだろうか、あるいは弛緩にあたるものなのだろうか。

むしろそこには、収縮としての自由と弛緩としての自由という、自由の二つのタイプが存在していることになる。それは能動的な自由と受動的な自由と考える事にも似ているが、収縮と弛緩とは厳密にいえば、能動−受動の実在よりも、また更に生物学的には意識よりも物自体に近しいそれ自体性の存在のことをさしているだろう。

収縮によって精神が自己を認識する仕種において、そこに必然性があるのならばそれは自由である。必然性がないのに収縮だけが自動化されているような状態ならば、それは錯覚である。錯覚の繰り返しと蓄積は結果的に不自由を明らかにさせる。錯覚の蓄積とは生の存在にとって視野を鈍らせるものであり、それは生の存在を曇らせることによって遅滞させる。機能を不全にさせる。便秘にさせる。・・・

厚みがあるばかりではなく弾性的な現在、我々を我々自身から遮っているスクリーンをもっともっと遠くへ押しやって向こうのほうへ無際限に拡げていくことのできる現在の中でとりもどしましょう。あるがままの外的な世界をとりもどしましょう。現在の瞬間に表面においてだけでなく、現在を圧迫してそれにはずみ elan をつける直接の過去も含めて深さにおいてとりもどしましょう。一口に言うとすべての事物を持続の相のもとに見るような習慣をつけましょう。そうすればたちまち、我々の鍍金がかかった知覚のなかで、こわばったものが緩み、眠がっているものが目を覚まし、死んだものが生き返ります。
ベルグソン『哲学的直観』

義務という意識の立場から収縮が自己を一個の主体性と認識する。そこには義務観念として拘束して捉えられた個人的な強度の存在がある。それは自己意識である。しかし義務の意識的立場にとっては、収縮することは可能であるのだが、義務の意識によって弛緩することとは不可能である。

弛緩とは、弛緩せよと命令することによって弛緩が訪れるものではない。仮に弛緩しようと命じても実際の弛緩が、個人の内部にあたる内的持続にとって訪れるには、そのようなケースがたとえ可能な場合にとっても、そこには相当のタイムラグが生じるものだ。

そこには時間の落差とズレが生じる。弛緩によって自由が訪れる状態というのは、絶対的に受動的な次元の出来事であり、故にそれは命法によっては到達することの出来ない領域である。無意識にはじまりやはり無意識に終わらざるえない次元での出来事である。ドゥルーズが気付いていたのは、要するにそういう次元の出来事性なのだ。

そのとき自由とは無意識からの到来性として、身体的には確認されうるだろう。意識の立場から想定された空間化が、その外部からの信号を受け取れることに成功するとき、そこには生の飛躍−エラン・ヴィタルが実現されている。

それは空間化の自己検証性の向こうにあたる過程、時熟の時間性によってもたらされる。空間化が意識の必然的過程であるのだから、自由の目指される方向とは、この飛躍を欲望することのできる欲求能力にこそあたるものだ。

カントは「愛せよ」と命令することはできない、と語ったが、同様に「洗練されよ」と命じることもできない。だが、問題は、「愛する」ことは、倫理の基本となり得るのに対して、美的であることは、必ずしも倫理とは両立しない。むしろ対立する。
福田和也イデオロギーズ』

マルクスは「ドイツイデオロギー」において、共産主義とは新しい交通形態を発明することであるといったのだが、社会に新しい交通形態の存在を豊かにしていく試みとは、必ずしも偽善とともに有りえる社会運動にそれが従属させられなければならないということを意味しないだろう。(原理的な契約の内容として従属をさせるべしというのが、柄谷行人の最初の戦略的発想だったのだ。)

社会運動の存在とは確かにオルタナティブとしての新しい社会的な交通網というのを同時に開示しもするという産出的な効果も伴って、歴史的には実在してきた。しかし交通形態の発明とは、何もそこの次元だけに縛られて存在するものでもないのである。むしろもっと自由な、偽善や義務的な強制力やその補完物としての啓蒙主義に拘束されない、交通形態を発明し続けることも可能なはずだ。

持続は本質的に記憶であり、意識であり、自由である。そして持続が意識であり自由であるのは、それがまず第一に記憶だからである。

持続、つまり生命は、理論的には記憶であり、意識であり、自由である。ここで理論的にはというのは、潜在的にという意味である。(何がなされるのか)という問いのすべては、どのような条件で持続が事実として自己意識になるか、どのようにして生命は、事実上の記憶と自由とに現実的に到達するのかを知ることである。

ベルグソンの哲学』51p、119p