自由と義務Ⅱ

1.
柄谷行人は自由と義務の意識について次のような統合をプログラムすることを意図しているものなのだ。

カントは、自由は義務(命令)に対する服従にあるといった。これは人を躓かせるポイントである。なぜなら、命令に従うことは自由に反するようにみえるから。したがって、あとで述べるように、多くの批判がここに集中する。しかし、カントがこの義務を共同体が課す義務と見ていないということは明白である。もし命令が共同体のものであるならば、それに従うことは他律的であり、自由ではないからだ。では、いかなる命令に従うことが自由なのか。それは「自由であれ」という命令である。そう考えると、この言葉にはなんら矛盾はない。カントがいう「当為であるがゆえに可能である」という言葉にも謎はない。それは、自由が「自由であれ」という義務以外のところから生じない(不可能である)という意味にすぎない。
トランスクリティーク柄谷行人01年批評空間社版170p

自由とは義務であると定義することによって、主体性の問題と自由の問題との統一を計ろうというのがここで柄谷行人の意図であると考えられる。

自由と義務の間にある根源的な分裂とは、自由を義務の目的とすることによって止揚されることになって解決されると考えられている。そのようにして主体性の意識とは対象的志向性によって占め尽くされた意識円環の中でも、自由がゼロとしての超越項に収まることによって脱構築されて救出されうることになるというのだろう。

義務を果たすことによって(労働の概念を通じて)自由を社会的に手に入れ直す。自由とはその都度の常に社会的な義務の報酬として開示されうるということになる。これは社会道徳の意識としては合理的である。柄谷行人によれば、自由を義務の意識によって空間的に捉えなおすこととは、同時に同様の条件を自分の他者にも見出そうとすることによって、社会的な統合性を見るというプログラムになっているのだ。それは汝の他者を汝と同様に扱え、という命法に自由の命法を転換させることによって、自由の社会的なる全体性を与える。

2.
反省の意識的なプロセスによって、これは自由ではない、これは自由だと、選別によって自己を克己していくこと。それは義務の意識として見出される。意識によって反省的に見出されうる自由の立場とは、既に時間の空間化された結果−産物でしかないものではある。しかし自由の空間化も否定できない。それは自由と空間の確保の関係としてある。空間化とは羅針盤としてある。

客観的な条件を可視化してグラフ−タブローにして所有することとは、意識が無意識と身体のバランスを確保するために当然の進行である。空間化によって自由を再把握することは常に定期的なる必然的浄化として持ち上がる。意識の本能的なドライブとは無意識的なる痕跡として身体と脳の奥に残されたものを、改めて空間化に置き換えようとするものであり続ける。命令であり、命法的な自己意識と社会意識の延長線上に、それは自由を見出そうとするものである。

自由を義務であると捉えることは、あくまでも社会的な共同体的なる配分としての自由を享受するための形式的な問題のことであり、自由を承認されるための形式的なプロセス−手続き論的な問題のことをさすに止まるものでもある。共同性への主体的な参画としての自由の領域が自由の形式的な問題の一部であるのと同時に、しかし自由にとって自由の本質的な問題とはまた別の次元の問題として控えているはずである。真の自由とは自己が自己によって捉えなおされる瞬間にあたるからだ。

それは自己が他者および共同性の形式的自由の了解に止まる自由の表面的な形式主義のことを意味しない。所詮、目に見える自由とは空間的なものであって、そして目に見えない自由とは時間によるものなのだ。自由の実質的な手応えとは、この目に見えない自由の実現、時間的な自由の実現にこそあたっているもののはずなのに。

3.

要するに、自由に関しては、その解明を要求するすべての問題は、それと気づかれることのないまま、「時間は自由によって十全に表されうるか」という問いに帰着する。---これに対して、私たちはこう答えよう。流れた時間が問題なのであれば、然り、である。流れつつある時間が話題になっているのであれば、否、である。ところで自由行為は流れた時間の中ではなく、流れる時間の中で行われるものである。したがって、自由とは一つの事実であり、確認される諸事実のなかでも、これほど明瞭なものはない。この問題のもつすべての困難さは、また問題そのものも、持続に、拡がりの場合と同じ属性を見いだそうとしたり、継起を同時性によって解釈したり、自由の観念を明らかにそれを翻訳できない言語で表現しようとすることから生まれてくるのである。
『時間と自由』ベルグソン岩波文庫版263p

しかし自由をその欲求能力にあると考え直してみたらどうだろうか。自由とは抽象的な空間によって見出されるものではない。あり得る空間の組み合わせについての抽象的な意識によって自由の概念に近づこうとすることとは、まだ自由にとっては完全なものではない。自由の抽象化されて空間化された観念のことをさして、要するに人権とよぶのだ。人権概念とは意識の力によって常に反省的に見出されるものであるだろう。

しかし自由を抽象的空間によって基礎付けずにして、自由を欲求−必要の欲望とその実現として基礎付けるとき、自由とはもっと外部にあたる領域、つまり無意識から訪れるものであるということが理解されるだろう。

自由とは抽象的に配分され、個人の立場に与えられうるというものよりも、その都度に必要に応じてそれが気付かれ、発見されて、取られるものこそが切実に、現実的に自由である。そして、意識−義務−命法の立場によって自由を見出そうとするキリスト教的な構図に対して(特にそれは労働概念を貴重な媒介概念として用いることによって社会−共同体的な統一の実現を見ようとする)、純粋欲望−無意識によって自由を基礎付けようとする立場を打ち出したのが、ドゥルーズ=ガタリの「アンチ・エディプス」であった。