自由と義務

1.
義務、そして道徳的債務の意識を習慣的なものから引き離し、純粋債務において見る、真に個人が為さなければならない債務−義務化の意識を、人間的−身体的に純粋抽象させようとするのが、まだベルグソンの提示した純粋身体性の享受の意識であったといえるものだ。ゆえに義務−債務−命法の連関性から社会的な自由の意識を分離しては考ええぬというのが、正確にはベルグソン自身の哲学だった。道徳と宗教の二源泉といわれているものである。

純粋債務を個人が主体的に発見することの中から社会的かつ人類的なレベルでの自己想像を生み出し、それを身体的−霊的−魂的に自己享受しようというのが、実際には最終的にベルグソンの出した立場であった。自己を強度として感受する意識とはまだ、ベルグソンにあっても真の社会的債務としての義務を身体的−想像的に抱え込むことの中から(つまり一個のナルシズムの中から)生み出され生じているものである。

一定の債務を主体化して引き受ける義務の意識とは、それが単なる社会習慣から引き離され根源的に個人の内面性のレベルから位置付けられるとき、自己を社会的−人類的自己として主体たらしめる根源的重力の存在であると想像されているものだ。重力の存在を個人が内面的に内奥に発見できることの中から、そのような人類的−普遍的な重力を基礎付ける大地の存在を想像的な全体像として見出して立つということの中に、自己の生を実感させるのが、目的であるという発想の中にあるのだろう。まだベルグソンにおいても重力の感受とは、命令を受け取るときの受動性の重みの中に宿っているのだ。

2.
ここでベルグソン自身の思想的立場とドゥルーズによって抽象化が施されたベルグソニズムについては若干分けて考えてみるべきなのだろう。道徳と宗教の二源泉というとき、それらの起源になって拠って立つところにあるはずの、全体的に規定するメカニズムとは、ひとつは社会の習慣上の強制力、いわば個人という個体の単位に働きかけるところの外的強制力であり、もうひとつの源泉となりうるのは、個人にとっての内面的な自己発見としての道徳と宗教の主体化される契機である。

ベルグソンは要するに真に道徳と宗教の立脚される根拠となるものとは、個人のレベルでの自己探求でなければならず、社会の表面上の時代的な強制力よりもそれは深いレベルにあるといっているのである。ベルグソンの意見とは忠実にキリスト教的な自己探求の立場をなぞるものであるのだろうが、これはしかしもともと、ニーチェの為した道徳批判の立場を反転させることによっていわれているものだ。

ニーチェが道徳の起源として、精神分析的にも見出したものとは、個人の内面的な規範と思われている道徳的で宗教的な債務の意識とは、もともとは社会的な慣習上のもの、特に商売の取引に見られるような債務の構造というのが、なにかの転倒を潜りぬいた挙句に、それはもともと人間には生来の罪の意識として宗教的に内在しているものだと取り違えられたものであるはずだというものである。

つまり道徳と宗教の発生には二つの起源が重なるのであるが、宗教的な内面として見出される人間の自己起源の意識とは病的なものであり、キリスト教的な転倒であると告発したのがニーチェであるのだとしたら、ニーチェを読んだベルグソンの場合、そのような根源的に自己把握される人類的な全体性の倫理的負債の意識というのを、もう一度哲学的に再構成しなければならないというものである。

ニーチェの転倒を再び道徳的に転倒しなおしたものがベルグソンの立場なのである。そしてこの最後のポイントにおいて、ドゥルーズニーチェの立場に立っている。ベルグソンの最終的な解答とは弱冠の距離を置きつつ立っているというべきなのだろう。