儒教のイデオロギー

中国で三大宗教というと、仏教、儒教道教のことをさす。この中で最も権力としての安定性を、前近代の東洋史において保ちえたのは、儒教だった。しかし儒教イデオロギーというのは一般に宗教というときの性質とは異なっていて、普通に宗教をイメージするとき、神や仏といった超越的対象のことを想定しがちだが、儒教についてはそのようなものが存在しない。

孔子の説いた『論語』を原典にして始まる儒教の体系だが、孔子がヒントにして前提にしていた思想とは、原始的な祖先崇拝のシャーマニズムのような流れであると云われている。そこから孔子の思想性というのも、祖先を敬い、父子関係から身分の上下関係を固く守り、家族と同胞愛を基準にして社会を道徳的に治めようというものになり、これは前近代の東洋史の構造において、封建的な身分秩序を維持する思想としてはよく機能した。

儒教が普通に宗教と云うときと異なる点というのは、それが超越的な対象に救いを求めるものではない。道徳律の存在について、論理的に根拠付けていくものになっているので、それは宗教というよりも学問に近い性質を持っている。東洋史の構造を見るとき、儒教が国家に根付く段階というのは、一定の知性と教養的水準が社会に達成された後の段階であり、まず仏教が栄えた時代が最初にあり、その仏教が構造的な限界を迎え腐敗していった後に、次に王朝を建てるものが儒教を国教に制定するという構造になっている。

朝鮮半島では、百済新羅、高麗といった仏教を奉じる政権が終わった後、14世紀の李氏朝鮮になって、それまでの仏教と僧侶階級による腐敗を改める為に、あらためて儒教を国教に制定するという展開になっている。儒教の国教化政策とともに朝鮮で育てられた官僚的な階級とは、両班である。これが日本で言えば、儒教が日本に入ってきたのは、殆ど仏教と同時期であるにしても、儒教の研究とは国家の法制度や学問的な部分に取り入れられただけで、国教としての建前は仏教が選択された。この部分的な学問として続いていた儒教が、改めてメインのポジションに政治思想の舞台において登場してくるのは、日本では江戸時代になってからの話である。江戸時代以前の段階では日本でも仏教の力が強く、それは一方では僧侶階級的な腐敗の構造をよんだし、仏教の支配する構造とは常に問題を孕み、封建社会には仏教ではどうしても治め切らない部分があった。

江戸時代において、儒教の受容とは、もはや完全に学問的なものになっており、要するにそれは儒学として重用されたのだ。儒学の特徴は、権力を道徳によって基礎付けることに適しているという形にある。家族を重んじ、孝行によって徳と仁愛を表現するものである。社会的な価値としての人格的な真面目さというのは、日本でも朝鮮でも、儒学の拡大によって根拠付けられた。儒学が最もよく基礎付けられたものとは結局、礼儀作法の問題なのだ。日本では、儒学とはサムライの心構えとして根拠付けが転用されていく。武家以外に官僚的な文治政治としての側面も、儒学の受容は、徳川幕府において受け持った。これは儒教儒学として日本で受容されたことの側面である。

しかし、そもそも本家の中国においては、まず仏教が中国に伝わってきたのが紀元後1世紀くらいのことであって、孔子の時代とはそれよりも遥か前で紀元前5世紀のことである。中国の統治では、仏教と儒教の地位は入れ替わっていくが、最終的に儒教は、宋と明時代の朱子学として大成する。

諸子百家の論争的流れにおいて口火を切ってる役割が孔子であり『論語』である。ここから論争的な多様性に向けて、諸子が思想的に展開している。後に、儒学としてこの時点が振り返られるとき、儒学において基本的な典拠とされるのは『論語』と『孟子』の二つである。孟子孔子の弟子であるが、いわゆる性善説を唱えた人物である。儒教の核とは、それが徳治主義を目指すものであることにある。仁と義を尽くし、礼を持つ。

儒教において、まず具体的な他者との関係から入るところが、他の宗教、仏教やキリスト教の根拠付けとは異なるところである。自己の内面をさらった挙句に、神や仏の関係が絶対化され、そこから具体的な他者との関係が生じるという構造ではない。まず目の前にいる他者、家族から主君、師弟といったものの存在が、儒教においては最初から絶対的なのだ。神や仏という超越的他者の関係から導かれ相対的他者としての隣人に入るという、内面化の構造とは異なっている。儒教において最初から絶対的になっている掟とは、礼儀作法である。そこでは他者との関係は、仁義の観念によって、相互の関係が互酬的に交換されるようにできている。礼儀の観念を根拠付けているものとは、超越的な他者性ではなく、あくまでも身近なものの親しさなのだ。この辺が儒教の他と異なるところであり、封建体制には重用された理由である。

儒教の理想とは徳治政治である。この儒教的理念を単純に表すものが孟子性善説である。ところが実際に儒教が社会的な倫理規範として機能をはじめると問題の弊害として、徳の理念にある単純な偽善性というのが明らかになってくるのだ。そこで孟子の次に出てきたのが荀子性悪説である。人間の性を善と考えたから、人の堕落を阻止することができなかったのだ。むしろ人の性とは本質的に悪である。このように考える性悪説は、結果として、礼と掟の持ち方について別の根拠付けを与えるものとなる。結局、放っておけば人の性は悪なのだから、社会は纏まりつくはずがない。だから外的な法の実在と規律によって、人は外側から管理されなければ社会はうまく回らないのだという考え方になるわけである。荀子の思想は、結論として、社会の監視と規律訓練の体制を強化することを呼びかけるものとなっている。

儒教というとき、孔子に始まり荀子によって、儒教の体系とは大体完結するようにできている。つまり儒教において目指されている理念とは、徳治であるが、内面的な徳だけに頼っていては上手くいくはずがないので、最後に荀子の説によって儒教の体系はうまく脱構築され完結する円環を持つという構造になっているのだ。しかし、儒学において基本的な原典は、孔子孟子の二つであり、荀子というのはその補完として見做されるような形が多い。(日本の儒学ではそういう建前である。)

儒教の示した徳治主義に対して、そこから偽善的な腐敗の問題が生じ、人間の本性として、善性とは人の内面にだけは頼ってはいられないという現実主義が明らかになり、その結果生まれてきた考え方とは、法治主義である。諸子百家において、儒家の後に法治主義を掲げて出てきたのが、法家であり、韓非子である。

諸子百家において、最初に理念として徳治主義の理想があり、それが実現されないから現実主義的な思想が後に発達することになる。法家の韓非子において、結局人は法の実在によって外的に管理するしかない存在だから、法の支配の在り方というのを説くわけだが、それは事件の逸話を題材にして、賞罰の厳密な在り方はどうあるべきかといった語りになっている。韓非子の語り口とは読んでいると相当残酷な語り口であり、この辺が孔子孟子の偽善的語りの側面とは異なるのだが、その残酷さも現実的な事実の処理の仕方の残酷さという感じがして、妙にリアリティのある、現実的な戦乱の世の原始的な処し方という感じが漂ってくるものだ。

韓非子だとある種政治における反動的な性質も顕わに示しているのだが、この韓非子荀子の問題意識を受けて、中間的な政治理念を示しているものとしては、墨子があげられる。たぶん墨子というのが、共産主義の理念には一番近い。墨子曰く、孔子の説く仁愛というのは「差別愛」であり、家族関係の外部を排除するものであるという。この墨子の指摘は成る程尤もだと思うのだが、墨子が主張するのは「兼愛」という理念である。兼愛というからには、そこから他者との愛の観念を交換によって受け持つというのなら、それは孔子批判としていいし合理的なのだろう。しかしどうやら墨子にとって、そこから、人を愛するということは人の全てを愛することである、またそうでなければならないという、如何にも形而上的な愛の話に飛んでしまうのだ。いい意味でも悪い意味でも、共産主義的で、かつ尖がった過激な要求を、社会に対して突きつけたのが墨子であるということになる。その無理強いで痩せ我慢的な理屈付けと、内面化された倫理主義によって、墨子の説とは現実性において根付けず、そんなに流行らなかったようだ。

中国で文革のときに共産党の立場から、儒教とは反動の教えであるというスローガンによって、容赦ない破壊の対象になったのが儒教関係の物だった。今の中国で、最も唯物論に近い発想というのは、荀子の説だということになっているようである。荀子儒家の末端にあるとはいえ儒家の中でも異端である。

しかし僕が見た中で、諸子百家で最も面白い展開と思ったものとは、道教の展開であるのだ。