ロックと人格性Ⅲ

1.
孔子的に云うと、礼のない者は相手にしないでよいという。礼のない者は門前払いにせよとは、元を質していけば儒家的な物の考え方なのだ。即ち他者を排除する条件とは社会的礼の有無によるものとされる。礼という抽象的な大義名分を基準にしながら、他者の選別、そして権威の再生産が続いてきたというのが、儒教的な伝統の基準であり、儒教的社会規範のモデルであった。

つまり、前近代の東洋的社会システムにおいて、儒教の体質とは、他者の選好と排除の基準として機能し、自己権威と権力の維持される仕組みとして続いてきた。身分制度を固定的に保守しようとする儒教システムの目的にとって、こういった社会権力の再生産のための排除選別の機能とは本質的なものであった。

2.
儒教の体質とは、最初から様々な反発を呼び起こしてきたもので、儒家と古代中国の政治において勢力を争った墨家から、法家、道家、仏教と、儒教型権力に対する批判は数多く存在していた。墨家の批判とは、儒教の説く仁愛とは差別愛だとするものである。法家の韓非子による儒家批判は、仁愛とは人間に元から備わっているものではない、結果的な現象の産物なのだから、仁愛は判断の基準とすることはできない、判断とは、法則性を抽象化して見ることによって決めなければならないとなる。

他者の排除選別が、礼儀作法を基準にして決められるものだとすることとは、形式主義的な基準によって社会の運営をまとめようとする操作となる。つまり中味よりも重要なのは、形式的な見掛けであり礼なのだ。礼のあるなしが、交換の基準であり、人間の判断になる。それに対して、仏教やキリスト教が、他者を呼び寄せるときに必要とする基準とは、このような形式主義的な操作、礼儀作法の有無といったような権力的基準とは異なるものである。

仏教やキリスト教においては、新しい他者の導入とは、彼らによって示される真理の有無が基準とされるものである。そこにある真理が、自らの宗教と共有されるものであるかどうかということが、選別の基準となる。そこでは本来的な意味では、礼があるかいなかという話は、別次元で結果的な話であって、他者の判断には特に関係ない。もっとそこでは他者の中にある事実的な内容のほうが見られるのである。

3.
元から異なる者同士において、礼儀作法が共有されていないというのは、異なる背景を持つ人間を比較するなら当然の現象であるわけで、礼儀作法とは、文化にとって恣意的で権力的なものであり、慣習的な結果の産物であるにすぎない。

他者が尊重されるか否かというのは、彼らの示す真理性にこそ基準があるのであって、故に、仏教やキリスト教の基準からすれば、礼儀作法という文化的恣意性の違いによって、選ぶ基準とするということは馬鹿げているということになる。固定した権力と身分秩序のための、自閉的で排他的なシステムの論理であるということになる。

既成の権力の立場から、礼儀作法を基準とすることとは、ある意味純粋な形式主義の判断である。そこには態度における意味や真摯な主張といった内容物は、関係ない、見なくてもよいことになる。この形式主義的判断を、権力の立場からの論理的判断として、方法を一般化させたものが、儒教的な権力と他者交換のシステムとして機能していた。これは東洋的な国家の性質を基礎付けていた。

4.
この前近代にあった東洋的国家の体質を変貌させていくものとは、資本主義の導入であり、近代に入っての資本主義的な交換体系の発達である。市場的な論理の形態から見れば、交換が、礼を基準にして交換されるとは、初期的な交換の有り方にすぎない。前資本主義的な交換にあっては、交換の条件とは道徳主義的なものであり、即ち礼儀作法の問題であった。これに対して、資本主義的交換が一般化されると、交換の条件とは、純粋に貨幣的な媒介に限定されうるようになって、その代わり、道徳的な重荷というのは、消滅していくようになる。交換物としての作品は、商品として自立した存在を持つようになる。

もちろんこれは、自由における二つの側面である。道徳的形式の要求から自由になる代わりに、自由で軽くなった交換とは、今度は資本主義によるモラルハザードとして影響を受けるということになる。道徳的形式の重荷から資本主義が解放してくれた代わりに、そこにはアナーキーで、道徳なき世界の蹂躙が支配するということにもなる。

5.
音楽の人格主義的なイメージが基準となったのは、ロックにおいて初期段階のことであったが、ロックという条件を媒介にして交換される精神性の基準とは、やがて人格を批判する人格性となり、ロック的精神の多様化と進化とは、更には、多重人格性、人格なき人格性のようなものも、ロックによって示される精神性と生き方の存在形態として生み出すようになる。パンクロックによって生じた人間像の新しいイメージとは、ジョン・ライドンのような人格批判的な人格性から、シド・ヴィシャスの人格なき人格性といったものまで、徹底的に、底を浚うように進行した。

礼の有無が交換の基準となっていた原始的段階から、売れるか売れないかが交換の基準となるような、イメージの成立が、市場的な数としての支持を得るかいなかというのが、作品の成立する根拠となってくる。ロックにおいて特に顕著になった性質とは、それまでの、礼のないものは作品としても売れないという、余りに文学的で左翼主義的な前提が覆されたということである。芸術的なイメージの成立において、礼儀主義の余分な重みの体制を打ち破ったことである。

ロックは、進化する段階に応じて、礼のないもの、社会的道徳性に反逆するようなイメージを売るものも、巨大な商品として成立させた。セックスピストルズのようなパンクロックの有り方もそうだし、反逆的なヘヴィメタルのイメージもそうである。

6.
ピストルズヘヴィメタルと照合して見たとき、一部文学や左翼で基準とされていたような交換と淘汰の基準が、いかに思い込みであったかというのが、はっきりとする。道徳(礼)のないものは、売れない。だから道徳のないものは淘汰してよいという形の、今でも残っている文学的で左翼的な思い込みである。

礼のないものは排除してよいという儒教的な起源を持つ保守観念、そして礼のないものは所詮売れないのだから社会的に淘汰される、だから淘汰してよいという考え方は、ロックが芸術的な商品の存在として高揚してきたときに、それは単なる偏見だったことを明らかにした。礼の存在が必ずしも人間にとって交換の基準になっているものではないことが、はっきりしたのだ。

これらピストルズ的なパンクや、ガンズ・アンド・ローゼズやエックスのような、反社会性を内在させた主張、イメージというのが、巨大な商品像として成長を遂げ、イメージとしての巨大な支持を得るというのは、どう説明したらよいのだろうか。

左翼的な交換基準の論理にある偏見とは、こういった現象を明らかにすることはできない。市場の発達と自由の意識の発達とは、礼を守るというよりも、言いたいことをはっきりと言う、表明することによって、破壊として対峙することになろうと、そこで抑え付けられているエネルギーを放出できる自由の方を取るのだ。

7.
しかし、パンクスやヘヴィメタルにある反逆的なイメージとは、実際にそれを人が演じているのを見ると、何か偽悪的なものを感じることは多い。無理して露悪してる、偽悪的に振舞ってる側面が、これらロッカー達にはやはりあるから、逆に、彼らの世界では彼らの世界の流儀で、道徳的に繋いでくれるような、頼れる人格性というのがあって、よく見ればやはり中には必ずそういう人が機能してるのを見つける。

それはヤクザ、マフィアの世界でも結局、裏社会とよばれる部分をうまく繋いで機能させているのが、そういった世界なりの流儀で道徳的な振る舞いが演じれる人格であり、そこにはそこなりの、少々流儀の異なる別の道徳的人格がやはり必要とされているし、実際その世界で出世できる人というのはそういう人物なのである。

仁義という言葉を聞くとき、今ではこれは何かヤクザ、任侠の世界の言葉だと思われてる節は多いのかもしれないが、仁義とは元々、孔子の説いた言葉であり、明らかに儒教の概念である。現代でも、仁義なんていう概念が、正当性をもって機能している世界というのが、ヤクザの世界ぐらいであるという現実とは、面白い現象であるものだ。

8.
礼とはあってないものだとする。これはこれでかなり巧妙なテクニックを演技として必要としているものだ。この芸を演じることは難しい。この芸を演じ切れる人というのは稀なのだ。我々は、泉谷しげるの中に、この絶妙な演技の上手さをみることができるだろう。バカヤローを連発しながらも、その実他者への配慮と優しさに充ちている。センシブルな男である。

芸術の形が、叫びながら、無媒介に自己の表出を放り出しながら、しかしその実、それを受け止めてくれるはずの他者への配慮を忘れることができない。もしそれを失えば、叫びは成立しなくなってしまうのであるから。この可愛げな偽悪性に何処までも取り付かれ、よくその心情のメカニズムを知り尽くしている男であるが故に、彼はそこら中のアウトローから、深い支持を受けている。彼の姿を見ると安心することができるのだ。あの人がいる限りまだ安心だと。清志郎の死を、同志の死として最も衝撃を受け感じ入ったのは彼である。しかしこの人がいれば、まだ悲しい報せも前向きに受け止めることができるのかもしれないし。