水道橋のボヘミアンラプソディー

5月の3日に、エックスのライブが終了した後ドームから水道橋の駅前まで帰る人々の足並みに混じって流れていった。ドームから長くて広々とした通路は延々と続きゆっくりとライブの興奮を湛えながら人の波が移動を続けている。

飯田橋から神田方面へ抜ける大きな国道の上を橋で渡り人の波とは水道橋駅の所で吸い込まれ雲散霧消していった。水道橋の駅前というのは思えば今までよく見たこともなかった場所だがよく観察すると結構これが面白そうなストリートになっていた。ライブの興奮は水道橋で開いている繁華街の店の幾つかに吸い込まれていく。

水道橋とは、後楽園を利用する客達にとっての、JRあるいは旧国鉄の最寄り駅として昔からずっと安定したお客の波で賑わって来た駅前であるはずだ。もっとも頻繁に利用が見込まれるのは、巨人戦が終わった後に流れてくる客層の種類だが、後楽園とは昔から、単に遊園地というだけでなく、ボクシングから大物アーティストのコンサートまで、あらゆるイベントの層を担ってきた場所である。

だから水道橋の駅前とは歴史的に見てもそういう多様な興行で沸く観客層の欲望の波をずっと引き受けてきた伝統を持っているとでもいおうか。都心の中心部で駅としては小さな駅なので都心を徘徊していても見落としてしまうことが多い駅前なのだが、よく見るとそこは奇妙に発達した伝統的なものを感じさせる駅前だった。水道橋からそのまま少し歩けば神保町の古本屋街にぶつかる。神保町の本屋や隣接する御茶ノ水界隈の安い楽器屋などはよく利用することもあれど水道橋というのは滅多に訪れることもなかった。

僕は後楽園にいくときはいつも反対側の地下鉄の後楽園駅を使っていたこともあるが、歴史としては後楽園の城下町のようにしてこちらの水道橋側のほうが古いのだ。この辺の界隈というのは思えば中途半端な街の構造である。マンションが多いような昔からの住宅街地区の趣もあるがオフィス街としては中途半端だし都会の真ん中であるにしろ何かすべての用途から中途半端な寂しさ、一歩離れると都会の中のエアポケットのような空虚な場所が多く、都会の中の砂漠地区といった閑散とした感じが見受けられる。

水道橋の駅前にだけ一箇所に狭く凝縮したように繁華街の店が固まっており、少し離れれば都会の砂漠のように特に見るものもなくなる。しかし水道橋の駅前にはちゃんとドームからのお客を吸収できるように、割と多様な層に渡る店の数々が用意されていて、ロックのアーティストがライブをやった折にはちゃんとそれ用の客で盛り上がれるようなバーというのも幾つか軒並み看板を出している。エックスのお客達を呼び込むような宣伝の看板も出している。僕らは軽く飯を食おうと思っていたので豚そばの店に入った。僕らが入ったとき豚そばの店の中は空いていたが、食べているとやがて同じライブの客が流れ込んできて同じような雰囲気のお客で店は満杯になってしまった。軽くそばを腹に入れて店を出て歩き出すと、エックスの親衛隊の皆さんが水道橋の駅前でたむろしている所と遭遇した。

特攻服を着た女の子が歩いていくのと擦れ違った。赤の特攻服と白の特攻服でお揃いにして二人の女の子が颯爽と歩きながら水道橋の通りに消えていった。振り返って見ると赤白の特攻服にはそれぞれ背中にエックス用の文字を刻んだ刺繍が厚く入っていた。特攻服を着た若い女の子を見たのなんて本当に久しぶりの事だった。もう20年ぶりぐらいに見たのかもしれない。ああいう文化がやはり日本でずっと今でも続いてきてるのだ。あるところにいけばあるのだろう。彼女達がどの辺の地域から今夜のライブに来てるかはわからなかったが。千葉の奥かもしれないし茨城かもしれない。案外東京のそういうチームだったのかもしれない。

特攻服の女の子の顔を見たときそれはナイスだったし年齢はまだ十代なのかもしれない。何処でどのようにして彼女達の間であの文化の継承がいまだに行われているのか考えてみたがちょっとよくわからないような要素もぶつかる。あの若い女の子たちが親衛隊をやめたらどんな風に大人になるのかとか想像するとやまない。また昔からいたはずのああいう女の子たちが今どうしているのかとか。

昔熱かったはずの日本のサブカルチャーにおける一分野の存在だが、あれを見て妙にほっとした気持ちになれるのは何故だろう。最近では暴走族や不良のチームに流れる若者というのは、日本人の子供というよりも外国移民の系統が多くなっているらしく、そこでは昔から続いている日本の不良文化の形態とは、どんな風になってるのだろうか、やっぱり変わっているのだろうかとか。日本従来のヤンキー文化も情勢に合わせてやっぱり変わっていくんだろう。もう国粋主義とかそういうことは言ってる場合ではなくなっている。これはこれで面白い現象かもしれない。

ボヘミアン・ラプソディーと云うとき、それはヨーロッパ的伝統の意味での、都会の一部にさまよい出てきた文学的な遊民たちの層のことであり、文学的な意図を背負った浮遊層の群れを指していたし、歴史的に見れば、20世紀で初期のヨーロッパのマルクス主義者とか、例えばレーニンのような人物というのは、そういう意味でのボヘミアンであり、ヨーロッパの都市を変遷している文学的な遊民の層にいたのだ。レーニンが革命家になる前にパリに滞在して遊んでいたとき、彼が興味を持って参加していた芸術運動とはダダイズムであり、彼が通っていたバーはキャバレーボルテールという店で、そこは当時ダダイズム系の前衛の拠点だったのだ。

元々ヨーロッパの革命運動とはそういう自由な前衛の空気の中からスタートしたものだったが20世紀の歴史の結果とは、その初心を全く裏切る逆の結果として終わったのだ。21世紀初頭の今、東京の真ん中でボヘミアンという概念を見るとき、どうしてもあいいう特攻服の女の子への思いを考慮せずにはいれないような気がするのだ。でもそれは何故なんだろうか。

クィーンのボヘミアンラプソディーも、何か若さが過激さを求めて屹立することにある逆説性について歌われたものだった。90年代にロンドンで開催されたフレディ・マーキュリーの追悼ライブで、エルトン・ジョンアクセル・ローズがクィーンの演奏をバックにボヘミアンラプソディーを演じているのがなかなかよい。