日本の文脈における最初の否定神学

ここ最近のことだが、道元の映画を切欠にして僕が禅の理論的著作を調べ始めたのは先月のことだった。するとそこから面白くなって日本仏教の歴史についてざっと壮観的にしばらく調べていたのだ。

日本の仏教にとって本質的な展開というのは、江戸時代に入る前にはもう終わっている。日本で仏教が実質的展開を見せたのは、基本的に平安時代から鎌倉時代へとかけた時期である。この時期で日本の仏教というのは根本的な展開力を終了してしまい、いわば仏教が仏教として出来る限りのパターンは埋め尽くされてしまっているといえるのだろう。そして日本で仏教以後に思想としての展開を担ったものとは、儒教神道である。

江戸時代に入っては、日本の思想史の展開とは、儒学の研究によって、道徳と権力と学問の基礎的体制を社会的に整えていく。もう一方では、神道から国学という形で、宗教性から学問(理性)を分離する形で、漢語に頼らず日本語によって物を思考することのできるエクリチュールの体制というのを、ナショナリズムと日本人意識の形成とともに発展させたという経緯がある。このとき国学の発達を担ったのが、賀茂真淵本居宣長である。

江戸時代において、日本の学問的認識の核とは、儒学国学によって主に展開するようになった。しかし江戸時代の以前に、日本の思想的基盤を確定していった段階として、日本における独自の仏教の展開していった過程というのがあるのだ。日本の風土における思想的基盤というのは、実際には平安時代から鎌倉時代の展開に、広く根付いていき、大体確定されていったものなのだろうという、起源的な痕跡を歴史から読み取ることができる。

まず、平安仏教というのは最澄空海の時代であり、密教の時代である。密教とは同時に山岳仏教と云われたものである。これは前段階にあった、日本にとって最初の仏教受容と確立の過程、即ち飛鳥時代聖徳太子による仏教の国家体制的な確立から奈良時代における仏教の国家的な統一政策に対する批判として生まれてきたものである。

聖徳太子が、仏教を国教的な手法として定めることによって奉じたのは、鎮護国家の思想であった。(飛鳥時代)もちろん聖徳太子の時代の背景には、既に曖昧で幾多の宗教的なイデオロギー、そして権力の思想的形態というのは日本の土地にざわめいていたものだったが、そこで敢えて仏教を上からの国教的なイデオロギーとして指定したのは、政治的な戦略であった。大陸から流入してきた仏教は、当時、国家的統一の基盤として、思想的威力と体系性の権威を持っていた。仏教を強制的に、国家の上からのイデーとして広めることは、最初に日本の土地に権力の統一性を与えるのに、上手く機能したのだ。奈良時代になると、南都六宗という形で奈良の土地における論争的な意味での仏教が興隆しながら、地方には国分寺という形でイデオロギー的な統一を司る機関を全国に配置した。これは日本の仏教における奈良時代の展開である。

奈良仏教の特徴とは、鎮護国家の思想である。奈良時代において仏教は日本の国家的イデオロギーとして機能していた。そして、この仏教における鎮護国家のイデーに対する批判として、平安時代イデオロギー的展開がまず起きたのだ。それは最澄によるものである。鎮護国家の仏教のイデーでは、論が抽象的な議論にばかり偏っていて、仏教本来の意味での宗教性、即ち魂の救済といった意味から外れているということが、中国に留学し、天台宗を日本に持ち込んだ最澄のポイントだった。そこで日本にとって仏教の意義とは、鎮護国家を目的とした思想性から、仏教的真理によって人と世の救済を導くものとしてのより過激な、論争的というよりも修行的な仏教へと、即ち密教としての仏教イデアへと移行することになる。最澄の批判とは、国家批判を含むものであるが、同時に宗教と教団の自立性を主張するものとなった。

密教の特徴というのはそれが山岳仏教だということである。(例えば現在でも分かりやすいイメージで云えばチベット仏教山岳仏教である。)それは敢えて都から距離を置いた場所、山の中に修行の拠点を定めた。そこでは、抽象的な論争だけでなく、身体的な修行に重きを置くことにっよって、仏教的な真理と悟りとは、密教的な、特殊で秘密裏の訓練の伝授によって開かれるものとする傾向が生まれる。最澄比叡山延暦寺を拠点とした。最澄の書いた本とは『顕戒論』である。戒(資格)を授けるとは同時に顕(分かり易さ)を戒めることであるという考え方になる。

最澄と同様の密教を更に展開したのは、空海である。空海高野山真言宗を開く。そして空海は、綜芸種智院という大学に該当するような学校を京都に作った。京都に大学的な機関を設けることによって、最澄密教性よりも、もっと社会的に布教が広く可能であるような、密教と学問の機関を作った。結果、布教の大きさにおいてそれは最澄に勝るものとなった。密教といっても、山だけでなく京都に学習の為の出先機関を作ることによって、結果的にそれは最澄の勢力に勝るものとなった。平安仏教を支持していた母体とは貴族でありそれは貴族仏教として広まった。

いわば日本にとって最初の否定神学の時代というのは、平安時代に訪れたものだと考えられるのだ。密教に孕まれたイデーの構造とは、今で言う否定神学に当たっている。そこでは、真理の存在とは、ないということによってある、と示される。そこにあるはずの実体がないことによって、逆に教義体系のある体制が強化されるという、学と認識の構造が、このとき日本で最初に権力ある思想体系として発展したのだ。

仏教的な真理の到達とは、このとき極端な崇高さのイメージを身に纏い、凡夫には近づきがたいものと設定されるのと同時に、それは要するによくわからないものであり、宗教と学問の体制における権威と権力の体制を、見せかけとして作り出すことに成功したのだ。このとき、仏教とはより社会における崇高さのイデーを演出することに成功し、同時に仏教教団が、もはや独自の社会的権力として、国家行政の手を離れて展開できるようになったことを意味する。これは奈良仏教と平安仏教の異なるポイントである。しかしこのような平安仏教の体制はやがて批判に晒されるようになる。それが鎌倉時代の展開である。

鎌倉時代に入ると、仏教の中の秘密主義的で僧侶権力的な体制は批判が為されるようになり、逆に、仏教の救済を民衆的に広めようと、教義について論理的な明快さで捉えなおす顕教の展開が発達するようになる。このとき仏教の重点とは、分かりやすく噛み砕き直され、民衆布教に移行してくることになった。鎌倉仏教の特徴とは、つまり否定神学批判である。