漢文と日本語

日本の仏教の文献について改めて触れて見るとき、例えば岩波文庫などに入っている過去の時代的な文献を見ると、大抵の場合は書き下した文章で仮名を中心に語られており、古文とはいえ何とか読めるような形で今の出版物には入っているが、その多くというのは原文の場合、漢文でそのまんま書かれたものであることが多い。

平安時代鎌倉時代の文献ならばそれは当然のことであって、岩波文庫に入っている程度の文章は、みな古文でありながらも読みやすいように配慮され、本来ならば入っていないような句読点もふられている、一回仮名を中心にして書き下されている文章である。あの通りの状態で昔の日本の僧侶が書いたのではない、僧侶が実際に書いたときは漢文で書いていることが多いのだ。

漢文というのも当時から奇妙なもので、殆ど中国語でありながらも微妙に日本語的な改めが入っている日本語と中国語の中間のような形態で、特に厳密な規則の検証もないままに、著者のそれぞれの流儀で書かれているのだろうから。もともとそういった日本語の表記形態が固まってくる過程では特に厳密な文法規則というのもまだありえなかったはずだ。

仏典の場合は日本のものでも漢文で書かれたものが多かったが、源氏物語などの物語や和歌の世界、そしていわゆる女ものの書き物の世界では、仮名によって日本語が平準に書かれるという形で発達した。いわば日本語を日本語そのものとして最初に発達させていった文章の形態とは、仏典のような固い物ではなく、歴史書の場合も日本では漢文がある時期まで多かったはずだが、固さや正式の文書の厳密さが要求されない、くだけた日常的な些細な記録の世界で、女たちによる書き物を中心にして、日本独自の仮名文体というのは発達したのだ。

このように漢字と仮名があい混じることによって、日本語の独特の形式が生まれた。もちろん最初のうちはその厳密な表現の規則など持ちようがないのだから、書き手によってかなり大雑把に、文法的な側面ではいい加減に自由勝手な書き方もされていた。それがどこからかだんだん文法的統一というものが可能になってくる。紫式部源氏物語を書いていた時点ではもう相当に文法規則というのも固まっていたのだし。

竹取物語くらいの段階でもう充分一般的に読まれることが可能なような日本語文章の統一性は出来上がっている。日本語表記の文法的決まり事の一つ一つを決めていった過程というのは、やはり万葉集古今和歌集といった歌を詠む習慣の中で決定していったのだろう。仮名表記の文法が決定されていく過程で歌物が果たしていた役割は大きい。それに比べて古事記日本書紀風土記のような公的な記録物というのは漢文で書かれ残されているものだ。

厳密にこれら日本語の表記形態が決まってくるのは、江戸時代で国学としての研究を待ってからのことである。国語という観念の雛形が成立する。(日本語が国語という概念とともに日本人に意識されだすのは、もっと先であって明治時代に入ってからのことである。)それまで特に統一した表記規則の確立というのは、日本語では難しかった。日本語というのは長い間、相当ざっくばらんであって統一性のない書き方で、エクリチュールについて模索していた期間は長かった。これは他の国、他の民族の文字表記の歴史と比べても、相当に面倒な事態であったのだろうとは想像される。

日本語で概念のことについて考えるとき、その多くは漢文に由来して使っている概念は多い。漢文由来ということは要するに元は中国語であり、中国で発明された概念だったということである。概念という言葉自体も立派な漢語だが、例えば、「矛盾」だとか、「混沌」だとか、「推敲」だとか、こういった概念の起源は漢文にあり、その意味するところの由来は漢文の中にあった説話であり、古代中国の諸子百家によって説かれていた説話によって、その原始的な意味の単位が由来しているものである。日本語で云われてる概念熟語でそれぞれの意味とは、元は古代中国の哲学的な逸話であることが多いのだ。

古代中国の歴史の厚みであり異様な豊かさである。大体似たような時期に、世界の地理的な横の軸では、古代ギリシャにおける哲学論争の体系が開花していたわけだ。諸子百家の場合も特にギリシャの豊かさと引けを取るものではないような厚みが充分にある。ただ中国で近代科学が生まれなくて、近代科学がヨーロッパの発明であったという点については、ユークリッド幾何学に該当するものが中国では存在しなかったからだとは謂われている。