しかし歴史の中で『Like A Rolling Stone』性の意味とは何なのか?

ということについて、ちょっと考えてしまった。

近代日本文学で参照すると路傍の石という言い方があるけれど、ボブ・ディランによって書かれた歌、どんな気がする?転がる石のような状態で?と問う台詞は、単にロックの歴史にとって、その起源で入り口に当たる部分にあったはずのクリシェであるばかりでなく、この歌が発表されたのはディランの1965年のアルバム『追憶のハイウェイ61』であるわけだけど、もちろん当時あった革命運動の空気に乗じて、この歌詞が書かれている。

しかし下のビデオを見てもわかる通り、ディランが革命的な社会ムーブメントに乗って書いた歌、もちろんそのような空気に受け入れられて広くヒットし普遍化したロックの曲とは、もはや一個の懐メロとして、歴史的な楽曲として、巨大ステージの上から、決して路傍の石のような絶対的に無名性ではない存在の、ストーンズやディランによって、その曲のその言葉が特に何を意味しうるのかを意識されないままに、大観衆によって歌われてしまう、受け入れられてしまう、消費されてしまう。・・・しかしその曲が元々意味していたものとは、それとは逆の在り方ではなかったのか?・・・どんな気がする?路上の石のような気分で?と、他者に向かって問い返すことが。

ディランが単に生きながらにして神様扱いの保護された人間であるだけでなく、ミック・ジャガーの場合だったらSIRの称号を国から受けた男で、国家的な承認の中にある、もはや列記とした貴族になってるわけだ。キース・リチャーズの場合は、サーの称号を断ったという経緯があって自ら歴史的な不良のイメージを維持したとしても、やはり完全な保護を受けた雲の上で住める存在であるには変わらない。その彼らが、ライク・ア・ローリングストーンの歌を言い聞かせたとして、一体何の意味があろうか?そもそもその歌の詩とは、誰に向かれてどのような動機で書かれたものだったのか?しかし少なくとも、『LIKE A ROLLING STONE』の詩に結晶化されたような精神性のエッセンスこそが、単に初期のロックムーブメントだけではなくて、60年代に端を発する新しい文化的な左翼運動を、その支柱としても基礎付ける精神性であったことは、事実なのだ。

今の彼らに、ロック貴族となった彼らに、その問いかけを為しうる意味があろうか?その資格さえあるだろうか?とてもそうは見えない。どう見てもあの光景とは、何かが矛盾している、巨大コンサートの一幕にしかならないだろう。何故この曲が、60年代の当時にそんなに流行ったのだろうか?そもそもこの曲の表象しているような精神性とは、近現代史的な人間像にとってどのような段階にあたるものであり、その内実の自己意識から、この曲を他者に向かって問うように歌ったときのエロスの正体とは何なのだろうか?そんなことまで考えてしまう。そしてこの曲には、まだこれから先も意味があるのか。・・・とか。