ローリングストーンという風景

ボブ・ディランによって1965年に書かれた歌の詩『LIKE A ROLLING STONE』について、あの有名な柄谷行人の定式を当てはめてみよう。

かつて君は奇麗に着飾り、乞食にコインを放ってやったね。たしか?人々は言った。気をつけろよ、お人形さん。落ちるぞ、と。ただ彼らはからかっているだけだと、君は思っていた。君は笑い飛ばしていた。やつらはたかってるだけだと。でも今、君は大きな声で語らない。もう君は偉そうにはしない。次の食事を、どうやって手に入れるのかについて。

どんな気がする?
どんな気がする?
家を失って。
もう誰にも知られていない。
転がる石のようになって。

ミス・ロンリー、君は良い学校に通っていたね。でも君は、その中で巻き込まれ、ジュースにされてるだけだと、よく分かっていた。誰もストリートで生きる術なんて教えてくれなかったし。でも今や君は、それに慣れなければならなくなった。君は、決して妥協はしないと語っていた。得体の知れない奴となんて。でも君はやっとわかった。彼らがアリバイを売っていたわけではないのだということを。浮浪者の目の中の真空を、じっと覗いてごらん。私と取り引きがしたいのか、と尋ねてみなよ。

どんな気がする。どんな気がする。君そのものと、向かい合って。家の方角も失ってしまって。もう完全に知られていない。転がる石のようになって

君は、奇術師や道化師を見た時に、いつも眉をひそめて、決して振り返りはしなかった。彼らがやってきてトリックを君に見せたとき。君は、それがよくない事を決して理解しようとしなかった。君が他人に、君自身のキックを与えない事を。君は、外交官と一緒に鋼の馬に跨っていた。彼はシャム猫を肩に載せていた。でも、彼が本当は見ての通りでなかった事を発見したとき。君は辛くはなかったかい?彼が盗めるだけすべての物を、君から盗っていってしまった後で。

どんな気がする。どんな気がする。裸同然となり。家の方角も失って。もう完全に知られていない。転がる石のようになって

尖塔にいる女王と無邪気な人々は皆、思い通りやったと考え、宴をしていた。贅沢な贈り物を交換しあいながら。でも君は、自分のダイアモンドリングをとって、もう投げ捨てたほうがよい。君はいつも面白がっていた。ボロを纏ったナポレオンと彼の言った言葉を。今こそ彼の元へいけ、君は拒めないだろう。何も得られなかったということは、失うものも何もないということだ。君はいま透明だし、隠すべき秘密など何もない。

どんな気がする。どんな気がする。裸同然となって。家の方角も失い。完全に見失われている。転がる石のように

名前を巡る、社会的な風景の構成論について、このボブ・ディランの詩から読み取ることができる。有名な名前と無名な名前、それらが社会的な地位、権力関係の中で混じり合いながら、社会的な欲望としての抽象的な渦を構成している。時折、我々はその構図について、芸術作品や文学的な詩を手掛かりにして、明晰なイメージとして把握することができるだろう。ディランの詩もそのようなものであり、1965年のこの詩は見事な抽象化によって、社会的な構図の摘出がなされている。わかりやすいしイメージとしても明確なこの歌は、当時の社会の文化的風潮にも乗り、ヒットし、広まった。またこの詩でマニフェストされたような精神性のスタイルが、ロックの最初に生成した初期のロック史において、基本的な形式を与えた。このようにロックの最初に形成されていく過程とは、倫理的な意識を外部に拡張していくものとして、一定の啓蒙的意識の発達とともに、社会運動、革命運動の気風の上に存在した。

あるブルジョワ的な意識の構図−それはディランによって、勝れて女性的な意識のものと描写されているのであるが−、LIKE A ROLLING STONE、路上に転がる石のように、意識の背景で無意味であり続けたものの反転、その復讐的な意識として、プライドを備えていたはずの優越感、自己意識が転倒されるという在り方になって示されている。これは自己意識にとって、外部からの反逆であり、復讐である。自己意識は突き放されたのだ。外部として見出された、路上の石の群れとして見出された、無名性の風景によって。あるいはこのような事件を、風景の側からの反逆と考えてよいだろう。路上の石のような風景、特権的な意識による忘却として存在していたはずの風景のことを指して、プロレタリア的なものの復讐的な隆起としても考えられる。乞食にコインを放ってやるようなあり方とは、逆の在り方、慈善的で同情的な自己意識的延長とは逆のやり方によって、自己意識がプロレタリア的な外部に、復讐的に飲み込まれるというあり方をもって、60年代の当時では、革命的な転覆と見做され得たのだ。その構図の真偽の程は、置いておくとして。

『like a rolling stone』で示されているのは、風景=外部の復讐的な転覆としての、革命的光景である。このイメージの持ち方自体は、もちろん明らかに時代的なものであり、時間的な刻印が明瞭に見て取れる。一個の文学的なスタイルである。要するにそれは、風景としてそれまであったはずの、自己意識にとっての外部が、実は人間的な意識を備えた生き物であり、路傍の石のような風景に限りなく近くとも、実は元の自己意識の持ち主と共通する人間的なメカニズムの一部であるには変わらなかったのであり、それが改めて、何かの事件を媒介にして頭をもたげて来て、自己意識にとってはそれまで気づかれていなかった、社会的自然の本来の姿として、復讐的な猛威を振るったという話である。この外部的な風景、路上の石の形に紛れ込んであった、周囲に地味に溶け込みカメレオンのように変色して実在した人間的な意識の実在の束のことを指して、プロレタリア的なものと云ってよいだろう。風景=無名性=外部性=人間性という図式によって把握させることである。路上の転がる石の雑多な存在性とは、例えば日本文学では、山本有三のいったような路傍の石の実在であり、それらを抽象的な多数性として把握すること自体が、ある種の新たな風景という観念の発見でもある。

「無名の人々」という観念が、新たに、風景として発見されるプロセスのことをさして、柄谷行人は、『日本近代文学の起源』(1980年)において、重要な解明を与えている。柄谷行人がそこで示したのは、国木田独歩のような文学において典型的に現れたところの、無名性=風景の発見という構図であった。「忘れえぬ人々」という形式で示される無名の人々の群れの中に、民衆的な風景の発見を読み取る、無名性で庶民的であるが故に、そこに人間的な価値の在り処を見出すという公式だが、この無名性の風景とは、マルクス主義者にとってのロマンチックな風景、プロレタリアートの風景として、国木田独歩の後には展開しえたものだといってよい。別にマルクス主義に限らず、あらゆる宗教の中にも、文学の中にも、「大衆」芸術の中にも、最終的に、転倒に転倒を重ねた上に、このような無名性の中に普遍性の水準を求めるという図式は、歴史的に反復されてあるものである。

しかし、柄谷行人は、その図式を疑ったのである。無名の人々の群れを、その無名性故に、称揚するという在り方は、それ自体が価値転倒の結果ではないのか?風景とは、まず何よりも、認識論的な布置として把握されてあるものであり、いったんそれができあがるやいなや、それが自明なものとして見做されてしまう限りにおいて、その起源も隠蔽されてしまう。つまり、無名性の称揚とは、それ自体が元々、名前を巡る攻防戦の窮屈な結果として、投影された転倒として見出されるものである。つまり無名の人々の称揚の起源にあるものとは、最初にあった名前を巡る何かの事件の結果なのだ。国木田独歩が、「武蔵野」や「郊外」において風景を見出すとき、それはいわゆる名所から切断された場所として発見されている。ここで名所とは、歴史的で文学的な意味=概念に覆われた場所に他ならない。風景とは、それが写生である前に、一つの価値転倒なのだ。

ディランの『LIKE A ROLLING STONE』においても、そのような国木田独歩的な価値転倒が問題になっているのだ。そしてそこで示された復讐行為、復讐的心情の限界と無意味さについても、やはり国木田独歩と同じレベルに止まるものである。無名性は時に、意識で制御しきれない多数性の塊として、意識に反逆をかけてくるだろう。しかしそれだからといって、我々の意識が、名前を巡る攻防、名前を巡る固有の傷跡から、自由になれるというわけではないのである。無名性の亡霊的で群盗的な襲撃は、ディランの65年において、一定のブームとなり共有され、68年的な世界革命運動のイメージを準備した。しかしそのような亡霊的な襲撃は、ブルジョワ的だと見做された、特権性と固有名に対する攻撃は後に何も残さなかった。しかしそれは当然のことである。そこには当然の如く、無意味な転倒と屈折した情念の垂れ流しとして機能したというまでのことだったのだ。