世良公則&ツイストの時代

70年代の日本の音楽市場とは、今振り返ってみてもなかなか面白い要素が満載で、分析すべきネタの宝庫ではあるのだろうとは前から薄々感づいていたのだが。海外から入ってきたロックの影響を、日本の歌謡曲的な楽曲のコードで段々に消化吸収していく過程にあったっている。同時にテレビの普及が全体化した時代の進行である。カラーテレビであることは当たり前の事実となり、チャンネルの数も多様化していく。テレビが音楽の発展を媒介する装置であることは自明の事実となり進行していく。歌謡曲の横にロックが日本でもジャンルとして明確化していく中で、70年代後半に世良公則&ツイストが大阪からデビューしてるわけだけど、骨太ロックとして関西から現れた浪速的ロックのセンスとは、当時テレビを見るものにとってなかなか衝撃的だった。世良公則&ツイストの起源として、ロッド・スチュワートやフリー、バッド・カンパニーなどが考えられるだろうが、これらアメリカやイギリスをルーツとするスタイルも、地べたから這い上がるようにして性的な自己を主張しようとするような、裸一貫型の身体的なスタイルとして、階級を問わず、ワーキングクラスからブルジョワまで幅広い層を魅惑しながら、商業的にもヒットを飛ばし、流通を広めていったものだ。やはり主に70年代に特有のスタイルとして現れた、このシンプルロックのスタイルだが、特徴的なのは、彼らの演じたところの性愛のスタイルが、歴史的なもの、時代的なものとしてよく刻み込まれていることだろう。これは世良公則&ツイストの78年に飛ばしたヒット曲『性(saga)』だが、当時の大衆的な性愛のコード、性的自意識が露骨に刻み込まれているものといってよい。

重要な事実は、性愛のコードとは時代的なものであるということである。そして時代による性愛のコードとは、無意識的な領域としては時代的な左翼性のコード、道徳性のコードとも連動している。時代的な自意識のコードとして、世良の口から出るこのような台詞の傾向を見てみよう。世良が反復してるコードとは、男は男であり、女は女である、という自意識上の同一化を、強化しようとする情緒性でありリズムである。しかし70年代にとって、決してこれはテレビや音楽の世界の出来事だけではなく、深く広く社会的な暗黙の共有コードであったのであり、文学や左翼においても、やはり道徳性の基準が、このような排他的選択の同一化として強固に意識することが、エロスとして体験されるという信憑性の時代だったのである。そしてこれはもう2000年代の現状の社会的性意識のコードとは異なっており、過去のものである。しかしこのような70年代的な記録のビデオをノスタルジックに見るにあたっても、性愛のコード、自意識というのが、歴史的な形成であり、単に性愛の領域として存在するのではなく、それは連動的に文学から道徳性の領域、そして左翼性の現場にまで、コードとして共有されるものだったという現象をこそ読み取るべきなのだろうと思う。もしそこに気が付かなかったら、あらゆる性愛の体制において、そのコードとは常に自明のものではなく歴史的なものである、基本的にそれは時代によって反転を重ねているものだというセクシャリティにおける事実性が見えなくなってしまうだろう。世良公則&ツイストのもはや歴史的な映像のビデオから読み取るべきものとは、そのようなものである。