浦和の図書館まで、ちゃりんこ

でいく。埼玉大学の裏手に、近年になって新しく出来たピカピカの未来的な建築が施された地域センターがあるのだ。大きな体育館や役所と隣接している。そこで宇野弘蔵の『経済原論』を借りる。この本を手に取るのはもう本当に久しぶりのことである。80年代後半に僕は何度か調べたことがあった。また更にそれ以前の時代では、このテキストが大学の教養課程などで普通に経済原論のテキストとして使われているようなケースも珍しくはなかったはずである。今になってみると、かつてのそのような大学教育の体制とは、どのようなものだったのだろうか、ふと思いを馳せてしまうものだ。

宇野弘蔵は『資本論』を科学として独立させた。客観的な科学的分析を記述するものとして資本論の研究を独立させたのだ。これは戦後の50年代から60年代にあって画期的な成果だった。労働者の動向や労働運動の側からの主体的な何とか、といった観念から、資本論的な分析の過程を分離しえたのだ。当時、宇野弘蔵などのこのような試みによって、日本の学的研究のレベル、アカデミズムの水準が守られえたのだといえよう。その結果、日本には他国に例のない「マルクス経済学」なる特殊な経済学上の分野が、近代経済学の流れに淘汰されずに、いつまでも長く生き残ってしまったということにもなったのだろうが。しかしそれも僕が大学に少しだけ籍を置いた80年代のことであって、さすがにいま真顔でマルクス経済学なる分野について大学で語るものは、日本にもいないだろう。(もしいたら珍しいか変人扱いなのでないかとは、察するのだが。)かつて僕は、宇野経済学に興味を強くもって、かつて宇野が在籍して学部長までなったという学部の残る、法政の多摩校舎に入ったものだったのだが。宇野弘蔵の残したものとは、結果的にはどう総括したらよいのだろうか。認識論上の科学的な立場と、実践上の運動的立場というのを、分離して捉えることに成功したということだろう。もし宇野弘蔵的なマニフェストが、戦後の一時期に成功しなかったら、日本の左翼言説は、もうどうしようもないものに転落していたか、労働運動側の強迫的な情念のプレッシャーに負けてしまって、質的なレベルを維持できなかっただろう。宇野弘蔵的なものというのは、それらの防波堤となったのだ。労働者の主体化、組織化から資本論研究を分離したというかどで、例えば黒田寛一からの「宇野経済学方法論批判」なる非難もあったのだが、宇野的なものが時代的に果たしてきた防波堤的な機能というのは重要だし、鋭いものがあったのだ。かつては大学の一般教養的なテキストとしてよく使われていたこともある、宇野の経済原論だが、それが今はどういうところで痕跡を残しているのかというと、経済政策的な分野であり、日本の公共政策の確固で堅牢なる性質だが、それはいい意味でも悪い意味でも、宇野弘蔵的なものが大学のアカデミズムで基本文献であったことの名残りなのだろう。