植木等の死

植木等が死んだというので、ちょっとツタヤでDVDを借りてみた。いわゆる「無責任」シリーズというのである。シリーズで第一作目にあたるという「ニッポン無責任時代」。公開は1962年で、昭和30年代の東京の風景が出てくる。新橋のオフィス街から住宅街まで。それを東京の風景の変遷、風俗史と見ても面白いのだが、この時代に植木等を目玉に据えてヒットしたグループ、クレイジーキャッツの果たした役割について、思いを馳せて見る。クレイジーキャッツというバンドの存在、それは主にジャズを中心に演奏していたもので、最初は進駐軍の相手などしていたこともあるのかもしれない。このバンドはハナ肇がリーダーとして率いるもので、この映画ではハナ肇は大手酒造会社の社長役で登場している。植木等東洋大出身であることは結構有名であるだろうが、ハナ肇の場合は池袋育ちの江戸っ子で工学院であり、その他のメンバーも東京芸大だったり早稲田だったりと、当時としては比較的高学歴のバンドだったのだ。(キャバレーで演奏するような水商売になるのにも大学的な文化サークルならではで、交換される教養としての音楽的知識は有していたわけである。)当時、洋楽としてのジャズに親しみ、高価な楽器を揃えて音楽をやれるという環境は、比較的裕福な環境でなければありえなかったという事を鑑みれば、クレイジーキャッツのこのような生い立ちは当然のものだったといえる。その辺は、クレイジーキャッツの影響を受けて次の世代に出てきたバンド、いかりや長介ドリフターズなどとは異なるところだろう。(ドリフターズの生い立ちについてはもっと雑草性が強いだろう。)

植木等三重県の寺で浄土真宗系の住職の息子だった。父親は、当時の労働運動、社会主義運動に深く関わったかどで地元では悪者扱いにされ、名誉を失墜したという人であった。植木等の生い立ちにはこのような父親の人生が影を落としていたのであるという。植木等は東京に出てきて、東洋大学に通い、ギタリストを目指していた。結果的には彼のバンド、クレイジーキャッツが映画で大当たりすることによって役者で大成功を収めることになるのだが、彼の楽天的なパーソナリティには、彼の生い立ちからすれば確信犯的な開き直りがあったのだということになる。植木等の演じた無責任男のイメージとは、日本の文化史的な過程からすれば、そこで革命的な転回を為したものといえる。もちろん当時の文化的な論調とは、幅広い意味での主体性論的なものが大きな顔をし、責任と道徳義務の観念が、人間性、ヒューマニティとしての主なイメージを覆っていた。そこに無責任性と楽天性を看板に掲げ、反旗を翻すという仕草は確かに何かの戦略であったはずなのだ。しかしそれはどのような戦略であり、何の為のものだったのだろうか。

植木等の演じる主人公は、名前を平均(たいらひとし)という。そして彼の主張する身分とは、自分の事を決して「労働者」とは呼ばずに、サラリーマンと規定するものである。知られているように、『サラリーマンとは、気楽な稼業と、きたもんだ・・・』というのがキャッチフレーズになっている。そして彼の見出す慣習的な真理とは、『わかっちゃいるけど、やめられない・・・』という意味のものである。いろんな会社でクビを繰り返しながら渡り歩く植木等は、新しい会社に訪れるたびに、会社の人間達の生真面目な習性に対して、トリックスターとしての役割を演じることになる。ユーモアの達人として振舞う彼の行為は、嘘をついたり何かを盗んだりを繰り返しながらも、共同体の中に特権的に道化役として食い込んでしまう。やがて会社自体が彼の存在を抜きにしてはうまく回らなくなるというところまで。昭和30年代であるが、既にサラリーマンでも株の売買に積極的で、大きな金を当ててやろうと欲望に目をくらます人々の有り方が、もうそこでは一般化しているのを見ることができる。浮き沈みを大きく繰り返すが、何があっても植木等を中心にした楽天性によって、そこを乗り越えていく、逞しさ、シブトサが、高度成長期の東京の風景をバックにして描写されていく。

戦後的な混沌を経て急速に体制が整備されていく生活環境、それは教育環境でも職場環境でも、明るくなれるということ、楽観的になれること、そして気分の上でまず転換が為されうるということには、本質的に無根拠な立脚が必要とされたのではないだろうか。無根拠に、幸せな気分になれて、よしとする、映画館を出た後には。それが大衆の中における無意識的な渇望として、よく求められたという段階にあたるはずである。60年代の前半とは、まだテレビは出回り始めた初期の時代で、庶民的な娯楽とはまだ映画が主である。無根拠性の根底、開き直ることと楽しくなること、即ち幸せな気分になることとの合一、というのが無条件なる渇望として、憧憬が投影された。植木等の示したイメージとは、具体的には今一線で活躍しているコメディアンの場合、殆どによく浸透しているといえる。ドリフターズに与えた影響に止まらず、ビートたけしでも、明石家さんまでも、片岡鶴太郎でも。特にその面影を発見しうるのはサザンオールスターズ桑田佳祐であるものだ。桑田佳祐の生い立ちは茅ヶ崎で父親が映画館を経営していたという。桑田的なセンスの中に見え隠れするものとは、60年代の日本の大衆映画によって上演されたコメディアンの手法である。植木等の映画を見に行った世代とは、全共闘世代からその下くらいまでに当たるのだが、もし植木等の提示した無責任男のイメージが彼らになかったら、まず論理的な出口の無さゆえに、大学などの環境において、自分自身が勝てなかった、自己をうまく作ることができなかっただろうという、その世代のアーティストは多いのだ。彼らが、左派的な出口を塞ぐ論理に対抗して所有した共通するイメージとは、やはり植木等的なもの、クレイジーキャッツ的な自由のイメージであったのだ。