『楳図かずお恐怖劇場 蟲たちの家』

黒沢清楳図かずおの漫画を原作にして映画を撮っている。『蟲たちの家』である。猜疑心、支配欲、独占欲の強い夫のドメスティックバイオレンスに耐えかねた妻が、家の一室で閉じ篭りになってしまった。彼女は自分が虫になったのだと思い込んでいる。夫は妻の部屋へ毎日食事を運ぶが、それは昆虫に与えるときと同様、野菜の葉っぱである。夫が部屋のドアを閉めるとき、背後では虫と同様に、ガサゴソと葉っぱに齧り付くがさつで猥雑な、昆虫的な食欲の音を聴く。劇の中で妻が引用するのは、カフカの小説の登場人物、グレゴール・ザムザの話である。女は語った。なぜザムザは虫に変身したのか?それは父親の監視する視線から逃れるためだわ・・・。男と外で食事してるのを目撃された女は、嫉妬する夫の暴力に耐えかねたとき、虫になりたい、と呟いた。それきり、彼女は部屋の中で閉じ篭ってしまった。様子を窺いに来る夫の目に映るものとは、本当の虫、それは喋々だったり、蜘蛛だったり、あるいは妻はやはり人間のままなのだが、主観的には自分が虫に変身したものだと思い込んでいる、部屋中にスプレーの糸をまき、それに絡まって耽っているという有様だった。本当に妻は虫になったのか?男は、外で自分に好意を寄せていた別の女に確かめてもらった。家にその女を呼ぶ。家にはもう一人外部からの侵入があった。それは妻と仲が良かった男友達であり、様子を心配した男友達が救出に来る。本当に妻が虫になっていたのかは定かではない。しかし外部から家に訪れた男と女は、いずれも不審な襲われ方をする。

なぜ人は突如、虫に変身するのか?虫とは無視の謂いでもある。他者からの監視に耐えられなくなったとき、他者の支配欲の重みに押しつぶされたとき、人は自己を放棄すると同時に虫になるのだ。虫にはもう、時間というものが存在しない。人間的な形象からも身体イメージからも責任からも解放される。考える必要もなくなり、ただ止め処ない無意識の想念が流れるまま部屋で放置しておくだけである。一個の閉塞的な家の中で、視線の政治性は放棄された。乱雑に放置されるままになった。それは部屋中に撒き散らされたスプレーの糸の乱雑に絡まる様のように。そして糸には、蜘蛛の巣にかかった獲物のように妻が絡まり、縺れながらからだをもたれ掛け浮いている。しかし虫の欲望とは、それでも外部からの侵入者を、家の中に招き寄せるのだろう。人間から変身した虫はやはり倒錯的なやり方で他者を欲望しているのだ。夫と妻の引き篭もり世界は、それだけでは完結できないような仕組みになっている。やはりそこには外部からの新しい餌食を、糸を張るようにして誘き寄せているのだ。

映画の中では楳図かずおのイメージがよく忠実に映像の実写劇に翻訳されている。