チャイナシンドロームとホテルカリフォルニアの時代
1.
チャイナ・シンドロームを見た。1979年に公開されたアメリカ映画であり、これは当時社会運動として台頭してきた原発問題をテーマにしたサスペンス映画であり、ちょうどこの映画が公開された直後にアメリカではスリーマイル島原発事故が起こったので、当時話題になった映画である。もちろん反原発運動には当初から賛否両論がありそれ自体問題を孕んだ社会運動のスタイルであった。
僕が中学生の頃だったが、映画はヒットし、当時だと池袋劇場といった都会の映画館でロードショーがされていた。池袋劇場という映画館はもうなくなったが跡地には今ゲームセンターやレストラン、ボウリング場、ブックオフなどが映画館と一緒に入居する複合エンターテイメント施設といったものに変わっている。ちょうど池袋の東急ハンズの隣あたりの敷地だったが、池袋がまだ露骨に汚い街だった頃の、70年代の記憶の中にある。中学生の頃にそこでは「野生の証明」だとか「ロッキー2」だとか観に行ったものだ。かつて池袋では一番大きな格のある映画館だったが、いつの間にかそこは消滅していた。建物の跡は取り壊されて新しい娯楽用の街並みがそこには作られていた。
当時の池袋というとなんか異様に乱雑な街であり汚い部分が露出している街だったという記憶ばかりが残っている。埼玉の中部にある町に住み、東上線に乗って日曜日などに東京に出てきて、池袋や新宿で映画を観るのが楽しみだった。中学生の頃で大体は中間試験や期末試験が終わった後の日曜日に出てきた。チャイナ・シンドロームのイメージといえばジェーン・フォンダが宣伝のコマーシャルでよく映っていた映画だったという記憶だ。ジェーン・フォンダよりも実際にはそれは原発問題の映画ということで流行となった映画だったのだが、中学生の頃はそれもよくわからなかった。そういえば僕がスリーマイル島という言葉を覚えたのも、何か雑誌でこの映画の記事を読んでのことだっただろう。
ジェーン・フォンダと、まだ若い頃のマイケル・ダグラス、そしてジャックレモンが共演してる映画だった。40代のニュースキャスター役をするジェーン・フォンダと30代の番組制作者役のマイケル・ダグラスが輝いている。実際には原発事故を予見した映画だった。時代の流れとしては、70年代の終りで、60年代の新左翼運動が敗北して、ベトナム戦争も終わり、ヒッピーも消えていくか転向していった時代の流れで、それまでの社会変革運動の流れが、反原発運動とエコロジーの方へ移動していった潮流の中で、象徴的に位置づけられるような映画だった。そういう意味ではキャスティングもずばりはまっている映画だ。このような経緯で名前だけは有名だった映画だが、僕は今回DVDで観たのが初めてだった。昔の時代の映画ということでもはやそれを置いてあるツタヤを探すのも手間がかかった。
2.
実際見てみるとただその時代のイメージだけが終始強烈に刻まれていて、内容やテーマよりもただその特定の時代感覚が、しつこい位に感じ取ることの枠組みとして、充てがわれているといったものにも見える。
70年代に特有のイデオロギー的な押し付けがましい映画というのもジャンルとして確実にあるのだが、しかしチャイナ・シンドロームの場合、それにしては表現の仕方はまだ冷製で客観的な理性は保っているほうで、見るときは、映像の枠組みから距離をおいて分析的に見やるような余裕は、確保できているような映画だった。
70年代後半の同様の映画として、例えば「ノーマ・レイ」をあげることができるだろう。ノーマレイは、やっぱり同様のアメリカにある時代背景において、平凡な女性の労働者が労働運動の存在に出会い、やがて活動家としてある種の自覚に向かう過程をテーマにすえたものだった。アメリカで、南米からの移民が多いような田舎の工場の労働現場を舞台にしたもので、同時代的にチャイナ・シンドロームとここで共有されているコードとは、大きな社会運動の流れが退いていった後の静けさにおける、問題の継続性ということにあるのだ。
70年代の後半、もはやアメリカでは社会運動の流れは退潮の中にあった。そして舞台となって選ばれる場所とは、アメリカの中でも田舎的なセンスにあたる、郊外であり、国家の全体にとっては、後発的であり、田舎の静けさの残るような新興の工業的な開発地帯で、そこに有り得る田舎特有の静けさと戦いながら、じわじわとした啓発の意識を実現させていくという映画なのだ。
70年代アメリカではある種のジャンルを形成するのだろう共通する流れにあるこういった映画の群とは、しかし見ようによっては決して悪くない、渋くて、見守るには充分の価値もある、テマティックな映画である。
映画が問題の傍らに、必ず静けさを描き出すことになる。町の静けさであり、郊外か田舎の静けさであり、昼下がりの静けさであり、昼下がりの太陽の光の揺るぎない確固たる退屈さの存在感である。これら存在感と倦怠感の中で、人間の精神が微妙に格闘し、問題に触発され、じわじわとした覚醒を見る。それは静かな覚醒と自覚である。
チャイナシンドロームの場合は、カリフォルニア州の外れであり、夏の太陽の暑さと無為と静けさが覆うような田舎町のようでもあり、ローカルなテレビ局、ネットワークの世界で、原子力発電所を取材する、明らかに社会運動あがりのような若いスタッフのチームに、女性キャスターが、問題の異様さを発見することになる。
原子力発電所のセットだが、もともと70年代に撮られたこの種の映画は予算が少ないということもあり、田舎の僻地にこさえられた小さな原子力発電所のイメージというのが、問題のマイナーでローカルであるが故の無力さというのを、まるでカルト映画さながらに醸し出している。このセットの貧弱な感じは単に当時の時代的条件にすぎないのだが。しかしこの貧弱さも妙にある種カリフォルニア州の隅っこの雰囲気として味がある。
しかしこの田舎的で静かすぎて、ローカルな問題における危険性の発見が、何か普遍的な到達の次元に繋がるような仕掛けを持たせる。チャイナ・シンドロームという言葉の意味とは、原子炉の壊れから剥き出しになった燃料棒は、そのまま炉の施設も突き抜けて地下へと転落していって、原理的には地球の裏側の中国にまで達するほど、それは地球上のすべてを突き抜けてしまうだろうという意味である。核燃料は一回失敗すると、自然も人間の誰をも手がつけられないほどに暴走するということの謂いである。
3.
ここで、イーグルスのホテルカリフォルニアという象徴的な音楽を思い起こして欲しい。ホテルカリフォルニアは、1969年産のワイン=スピリットというのがテーマになっていたものだ。それはアメリカにとって国家的な変遷のテーマにも重なる。時代の推移、時代の地層が、移動し、深い部分に入り込み、手が届かなくなってしまうことによって、静かな地響きの記憶と共に、ウエストコーストのサウンドとして、地殻を移動していった過程である。
イーグルスのホテルカリフォルニアは1976年に発表された。イーグルスのアルバム「ホテルカリフォルニア」を紐解き、そこに聞き入るとき、その不思議なアルバムとは、異様な静けさによって構成された、緻密な造りを持った建築物としてのホテルカリフォルニアであったことを、知るだろう。
そして、70年代終りに製作されているこれら映画群に一貫して流れているテーマとは、大文字の社会運動が敗北したことの無力感であり、そこにあった挫折したスピリットの流れとは、静かに、田舎で移民者たちを相手にする工場の労働運動や、自然に浸食する環境破壊の資本主義的進行に対して、静かに問題を発見し、静かに魂の闘争を蘇らせるといった、限りなく無為に拡散していく空間的拡がりの中で静かな散種を確認する営みという姿をとったのだ。
ジェーン・フォンダやマイケル・ダグラスはその啓蒙的な使者の役割を買ってでた。チャイナ・シンドロームの制作、企画をしたのは、まだ30代の頃のマイケル・ダグラスであり、彼は最初は映画監督を志向していたようだが、この映画の成功の後は、俳優として定着するようになった。チャイナシンドロームは、それまでの社会運動に代替して当時台頭してきた、アメリカのエコロジー運動と反原発運動の中から出てきた映画であるが、原子力発電についての啓発的な内容としては、特に誤りを犯しているというものではなく、客観的なデータの中で語ることは、特に踏み外してはいないだろう。
しかし、チャイナ・シンドロームでは、実際に原発が事故を起こした後の世界は描いていない。この原発が危険だということを告発しようとして負けてしまう人々の話である。それでは実際に原発が事故を起こしてしまった場合、すなわち市民たちの意識が裏切られてしまった後にどうなるのかというケースは、どう思考すればよいのか。今、日本の私たちが放り込まれたのは、この事後的世界像である。1979年にチャイナ・シンドロームが公開された後に、スリーマイル島の事件も、チェルノブイリの事件も起きた。実際にその手のつけようのないものが放り出されてしまった後の世界とは、どう捉えればよいのだろう。
4.
70年代に、ある種イデオロギーの延長上にチャイナ・シンドロームは作られたが、イデオロギーのほうも破綻し、かつ実際に事故は起きてしまった。手のつけようのないものが放たれた環境で、それでもその災害後の世界、事後的世界を生き延びる人間の姿である。事件が起きる前よりも、起きた後に広がる世界のほうが、人間にとってはリアルな世界像であることだろう。スリーマイルやチェルノブイリというのは、地域として単に世界の一角で起きた取り返しの付かない部分として、世界のメジャーな視野視界からは切り離され捨てられただけだ。
しかしイデオロギーに逆戻りするというのではない。バックラッシュでもなく、エネルギーを供給する経済的世界の現実性を捉えつつ、事後的悲惨の姿と隣り合わせになり、共存しながら生きていく。イデオロギーのヒステリックな反動性に足を取られることなく、それは反発と推進の対立する二つのイデオロギーに距離をおくことでもある。
それは生存にとって、イデーとリアルの隙間にある静けさと付き合うことになるだろう。いつも控え目にしか物を言わず積極的に語りかけはしない、自然の寡黙さと陥没した静まりに気づき、そこで対話することである。イデオロギー的狂騒に対する自然の静寂、田舎の町にあり気な人間の静かな退屈さとは、既に70年代後半の左翼的延長で撮られていたアメリカ映画が発見していたものである。我々はきっとその事後的静けさの世界観を、再び発見することになる。それは忍耐深いが自然な対話の発見に依る、世界が自然と調和するポイントを知る、古くて新しい世界像である。