地震の夜

1.
地震が来た時は最初そんなに大したものとは思わなかった。自宅にいたが長い揺れだということは分かったので取り敢えず暫く大きな本棚を部屋の中で押さえていた。

あんまり長く続くので倒れるならそれでいいやもう面倒くさいと思って部屋の隅で座り込み壁を背にして狭い周囲の安全を確かめながら揺れに身を預けていた。車に乗ってるときなどワイルドな事態にも慣れているので、身体的には特にこの状況で何が起きても危険だとは思わなかった。障害物が体に当たってきてもそういうのは慣れているので身のこなし方もわかると思っていたからだ。むしろ災害のような状況は僕にとって好奇心の対象である。危ないことはたくさんあったし、二十歳ぐらいの頃はバイクで小さなトラックに跳ね飛ばされたりしたこともあったので、こういう状況に追い込まれると、怖いというよりもむしろ好奇心のほうが、僕にとって機能するのだ。かといって後で振り返るとあれはやばかったなと思えるというか、後悔するような状況も多々あり、自分の態度で常によいという自信もないのだが、昼過ぎに揺れがはじまったときは殆ど寝ぼけていたので、なるようになれというその場任せの対応になった。この日は寝たのが朝の7時頃だった。

揺れは長くて収まっても後から断続的に何回も続いた。ぼんやりとあたりの状況を眺めていた。観察していた。結局本棚からは数冊の本が落ちたが、しかし僕の部屋、僕の住む場所ではそれだけだったともいえる。しばらくしたら、エアコンの送風が止まり、電気スタンドが消えた。停電が来たのだ。それでもそんなに大した状況ではなかった。ただパソコンが使えないことはわかったので、普段使用しているアンドロイドのスマートフォンだけが頼りになった。ネット経由で情報を確認する。ツイッターのタイムラインが一番はやくて面白かった。ラジコをつけてTBSラジオの声を聴いた。しかしスマートフォンでラジコとは電源を食うので、一時間も経たないうちにスマートフォンのバッテリーも限界になった。部屋にいてなんだか億劫な気分だけが高まってきた。



2.
家の外へ出てみると特に倒壊とかそういう状態は一つもなかった。ただ家の斜め前にある公園は人が多く出てきていてそこで避難していた。僕は個人的に不安はなかったが、しかし町中で電気が使えない状況みたいだったので、それだけ厄介だと思った。埼玉県の南部だが、この地域は特に致命的な被害がなかったのだろう。ラジコの話では、東北の地震だとは了解していた。三陸沖で大きなのが来た後30分後には茨城沖でも大きなのが来たのは、スマートフォンウェザーニュースで確認していた。ただスマートフォンももう見れなくなった。不気味な静寂で覆われた町になった。電気は来ないし、情報もない。車はよく通るけれども、そして人々は災害に戸惑い道を歩いているけれども、基本的に、静かな町になったのだ。商店街に出ると、停電になったので多くの店はシャッターを降ろそうとしているところだった。肉屋の前とインド料理屋の前では炊き出しがはじまっていた。炊き出しの前には人の列が並んでいたが、しかしそんなにパニックというほど多くの人々ではなかった。スーパーのサミットの前では、ラジカセが置かれ、ニュースの声を聞きながら人々が立ちすくんでいた。駅には電車が一台止まっている。電車が立往生しているのだ。しかし駅はこういう災害時でも自家発電で電気が使えるのもわかった。三井住友銀行のATMもそこだけ自家発電が使えるようだった。駅前にあるセブンイレブンは電気が止まり、ガラスの自動ドアを閉めた前には人の列が出ていた。僕はセブンイレブンのATMをいつも利用しているのだが使える状況ではない。埼玉県南部の町では、被害は余りに小さかったといえるのだろう。停電だけだ。目下の問題事とは。平和なもんだ。それで僥倖なもんなのだろう。自分の部屋に戻ってしばらくぼんやりしていた。夕方になった。暗くなってきた。電気が止まっているので暖房も使えない部屋だった。春先とはいえ寒さがばかにならない。軽い冷えが室内に忍んでいた。

夜になって隣の町は明かりが煌々としているのに気づいた。志木市は停電だが、新座市は電気が来ているのだ。隣接する三芳富士見市までは停電だ。しかしちょうど区画の問題で新座市までは電気が来ている。僕は夜の中を自転車で外へ出かけてみたが、それは奇妙な状況だった。少しだけ離れた新座市のエリアに入れば、町は全く普段の活気に、いや普段以上の活気にあり、コンビニもファミレスも灯を煌々とかざし繁盛している。こういう災害時はむしろ普段以上に繁盛し店の棚には売り切れが目立つほどだ。道路には普段以上に車の列が並び混雑している。この夜は街の奇妙な光景をさらけ出していた。一歩違えて志木市に入るともう町は真っ暗だ。そして暗闇の中をひたすら歩いている人とすれ違う。信号も灯が消えている。特にパニックは見なかったが、今夜は車のドライバーの運転が荒い。混んでる上によく確認しないで横道から出てくるのだ。賑やかなコンビニの店内で、ホットの紅茶と煙草を二箱、そしてスナック菓子とマシュマロのお菓子を買って、家に戻った。何故だか家には蝋燭が買ってあったので蝋燭の火で夜を過ごした。最初は何一つ音のしない部屋の中で過ごしていたが、そういえば昔買ったトランジスタラジオがあったはずだと、蝋燭の火をかざしながら探し出した。残念がら電池は切れていたので、もう一度寒い中を隣町のコンビニまで自転車飛ばして買ってきた。



3.
寒い夜だった。それは三月の夜というよりも、正月の頃の寒さ、冷たさに、静けさのようだった。とにかく僕の住む町だけはすべて電気が消えている。不気味だが爽快なほどの何もなさと静けさが、町を支配してた。蝋燭の火を部屋で灯しながら、トランジスタラジオの有難味を感じた。TBSとNHKの局を交互に切り替えながら聞いた。二つのチューニングの間にあるのはFENとNHK教育のラジオだった。FENを通るたびに洋楽のロックが聞こえる。教育のラジオは英会話を話している。部屋の中で布団を厚く被ってもう寝てしまおうと何度も思ったが、なかなか寝付けなかった。却って神経は興奮している。NHKのラジオは報道をずっと淡々と喋り続けるだけだが、TBSのラジオでは合間に音楽が入った。ビートルズの曲を集中的に今夜は意図的に流していた。家にノートパソコンが一台あったので、そこにUSBで電源を挿し込むと何度かスマートフォンが復活した。ツイッター2ちゃんねる、グーグルリーダーを交互に見て回った。しかしノートパソコンのバッテリーもそうこうしているうちに底を尽きてしまった。スマートフォンYOUTUBEが見れるのでそこでTBSのニュースのストックを見ようとしていたら、唐突に電源が切れてしまった。ツイッターのタイムラインで、桶川の友人宅は10時頃に電気が復旧したというのを見たので志木市もじきに復旧はするのだろうと信じていたが、しかしなかなか電気が戻ってこない。布団の中でじっとしている。蝋燭の火はもったいないので、もうあんまり使い過ぎないで取っておこうと考えた。薄い暗闇の中で布団にくるまっていた。こういう夜こそぐっすり眠ってよいのではないか。自分にはそう言い聞かせていた。この夜はもういつ寝てもよかったのだ。しかしそういう時に限って寝れない。そんなもんだ。

深夜の三時唐突に電気が復活した。枕元の電気スタンドに唐突な灯がともった。きたか!テレビのスイッチを入れた。ちゃんとテレビも復活している。エアコンはリモコンでスイッチを入れた。ピッといういつもの電子音が鳴った。パソコンを起動した。起動の画面が懐かしいほどいとおしい。このようにして僕にとっては、この日、3月11日から12日にかけて平常が復活した。夜中の三時だった。電気と情報が復活したのは最初の直撃から12時間後だった。突然エアポケットのように穴をあけて引きこまれた非日常の12時間だった。一体何だったのだろう?今夜は。そしてもうすべて元に戻ったのだろうか。あくまでもこの町の事情だが。不思議な静寂の空間だった。不思議に瞑想的な時間がそこで生じていた。復活したテレビを眺める。インターネットでは、映像の記録を中心に、今日一日の情報を探る。この間実際に起きていた全体像とは見れば見るほど強烈な災害のイメージだった。僕にとって不思議な静けさへ迷宮のように落ち込んでいた実体感のないこの一日は、客観的には歴史的な余りに強烈な刻み込まれた一日となっていたのだ。

この夜の外に出て自転車で走った鋭い寒さの感覚を回想した。バイパス道路ではすべての灯が消え信号も動かなかった。車の量だけはやたら多く交差点を通るたびに白バイの警官がバイクから降りて手旗信号を振っていた。静かだが車の数と歩道を渡る人の数だけはやたら多かった。みなが無言で急いでいた。大災害は確かに起こったのだ。そして災害で蒙った被害の傷跡は時間をかけて復旧されることだろう。災害が起きるたびに社会は我に返る。そして再び社会はまた元に戻ろうとする。社会にはそういう本能が働いている。災害は普段見失っていた視点を与える。しかしまた社会は平常化するたびに視点を失う。その繰り返しなのだ。単純な繰り返しでもある。社会にとって。いや生きるということは。