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夜中に何度か目が覚めた。唐突に、眠りの深みから何の脈絡もなく、空虚なホテルの部屋の表面に、波間から打ち上げられるように、押し出される。深夜に目が開く。しかしそこは何もない部屋だった。電気は消して寝た。だから木製で厚くて古く重たい不恰好な窓ガラスには外から街灯の光と月明かりが映えて、室内に薄い明るみを照らしている。そして古いホテルの一室で寝ていた。百年前にこの部屋で人が死んでいたとしてもそんなことも僕には知るすべもない。百年間ここでビルが建てられてからずっと退屈な事件と退屈な人間の入れ替わりしかなかった部屋かも知れないし、もしかしたら悲惨な記憶を、その片隅に、眼に見えない歴史に宿している、ホテルの一室かもしれなかった。一人でこんな不気味な部屋に泊まってる自分は、よく考えれば不安なことだった。しかしそういう時はよく考えなければよいのだ。ただそれだけのことかもしれない。心の現象学にとって。無限に推測が遡行すると無限に不安になるだろう。だから人はその思考にとって、どこかで無限を担保する術を覚えるのだ。無限に背進する不安の進行に対して、どこかでメタレベルの表象に、不安の全体を担保して預ける。それで後は、自分で考案したその図式の有効性について、信じて寝るしかない。目を開けるたび唐突に不安の感覚が蘇る。今なんで自分はこんな所にいるのかとか。そして頭痛の進行具合と体内の熱の進行具合について、確認する。そういえば前回の意識ではこの位に頭が痛かったけど、それが今はこれだけ改善している。薄まっているとか。体が上へ向かっているのか下へ向かっているのか。痛みの程度、熱さの程度を、抽象的な、漠然とした、しかし最も有効で確実なるバロメーターとして、単純にそのことだけを考えて、再び眠りに戻ろうとする。夜はまだまだ長いのだ。再び人と会えるのは、究極Q太郎がこの部屋に戻ってくるのは、明日になってから、空が明るくなってからのことなのだ。それまでずっと一人であるには違いない。だからただひたすら寝て待つしかない。この体の熱を下してくれる力というのも、時間にかかっている。

時間とは目に見えないし実体もない。しかしそれは必ず機能してるから。時間とは一つの信仰のことでもある。そう言い聞かせて、断続的な眠りを、浅いのも深いのも合わせて、この夜は限りなく何度も繰り返していたような気がする。そして眠りの表面に何度も浮き上がってきて、目が開くたびに、そこは空虚な部屋が現前していた。空虚な部屋には外からかすかな光が照らしていた。部屋の中にある僅かなオブジェの影を、壁に映し出していた。物言わぬ影は、壁の面で揺れていた。外からは、雪の夜の湿った気配の音だけがしている。此の様にして何度か僕はあの夜に目覚めていたはずである。そのうちの一回、トイレに立って戻ってきた、バスルームは部屋の外にある共同のものだ。戻ってきて成す術もないので、何か気を紛らわそうと、昨夜にスーパーで買っておいた寿司のパックを開いた。ニューヨークのスーパーで売ってる寿司というのがどんなものなのか確かめてみたかったから買ったものだ。干瓢巻きだったが、どうも今ひとつインパクトのない、浅い味わいの干瓢巻きだった。一つショックだったことは、横についてる生姜が、甘酢しょうがではなく、普通のしょっぱい生姜の漬物だったことだ。醤油は普通についていた。小さなビニールパックに入った一回分用の醤油である。寿司の横についてるのが甘酢しょうがではなく、ただの塩っぱい生姜だったりしたら、結構ショックなのだ。いや日本人ならばきっとショックを受けるはずだ。

スーパーで寿司を買ったとき、もう一つ買っておいた物があって、それは小さなケーキだった。これも日本のセブンイレブンで売ってるケーキと比べたら、味気なく、何の迫力もなかった。日本のコンビニで売ってるケーキ類のレベルとは、やはり相当に高いのだ。よく研究されてるし、競争は激しいし、しかも安い。ニューヨークのスーパーマーケットでは、ああいう細かい競争意識が働かないのだろうか?この違いは日本の不思議であるような気もするし、あるいはニューヨークの間抜けさというかだらしなさなのだ。味気ないシンプルさで統一されたニューヨーク産の干瓢巻きと、薄くカラフルなクリームの載ったショートケーキを、ペットボトルのミネラルウォーターで流し込むようにして、深夜に食べた。残った水で、また風邪薬のカプセルを大雑把に数錠手につかみ、服用の但し書きの英語など全く無視してがぶ飲みして、再びベッドに引っ繰り返って寝た。目覚める時も唐突だったが眠りに落ちるのも一瞬ですぐだった。すべてこの夜の事は。