核時代の想像力、再びその意味を問い直す時

1.
昨日の記事で僕は、自然と世界が調和するポイントを知る、事後的で静かな世界観が、再び必要とされる、訪れるという趣旨を書いた。しかし、今回の災害以後のパースペクティブを考える限り、そして昨日当局から発表されたニュースとして、東京の浄水場の水に、既に放射能汚染が検出されたという段階にあっては、「自然」という考えの中に、通常の災害とは異なる要素、つまり放射能汚染によって、自然界に内在する自然のメカニズム自体が、狂い、突然変異し、正しく調和する本能を失ってしまった、投げ出されたポスト自然の段階という考えを、考慮に入れなければならいことが分かった。

単純に、人為的な、自然災害への人的反映としてのイデオロギー、またそのイデオロギー的狂騒に対して、自然、自然の自律的に調和する、神的メカニズムという、二項対立をおいては、今回の事件、今回の災害、そしてこれから以後の世界像は持てないということが、分かった。

狂騒から遠ざかった場所、遠ざかった時間において、基準としての自然を再発見するという構造は、今回の災害以降は、どうも調子が上手くいなかない要素がある。なぜなら、自然の内在的メカニズムの中に、放射能汚染による、自然自体の狂気、メカニズムの失調という病が、そこには新たに加わってくるからだ。これが、新しい災難の新しい性質として、キーファクターとなる。いわばSF的に描かれてきた世界像ならば、核戦争以後の世界像として描かれてきたものがリアルな世界としても迫ってきたという事態にあたっている。



2.
行き詰まったとき、難しい人間的問題への答えを、自然に訊ねる、自然との長い対話の中で、自然の自律的メカニズムが、その人間を超える答えを用意してくれるという図式は、こういう局面では、もう単純には通用しないのであろうということである。答えをきこうにも、その自然自体が、内在性において、既に狂っていると想定されるからだ。問題への解として、自然を参照できなくなったとき、そのとき人間は、じゃあどうすればよいのか。福島原発事件以降の世界像とは、その在り方が求められることになったのだ。

もちろん既にSF的想像力の世界では、核戦争以後の生存というテーマで、同様の狂ってしまった自然について、何度も描かれてきている。自然がもはや正しい解答を用意してくれない。ゲーテのように問うて生きることは不可能である。それがSF的世界像の自明な条件である。

侵された自然を前にして荒廃した環境を乗り切るには、何が基準になるのだろうかと。情報か?しかし情報も社会の自然的環境の一種と考えれば、情報はデマゴーグで侵されている。他者はウィルスを既に含んでいて、自然は放射能を受けて狂っている。



3.
狂った色の花が咲いている。草木からはよく見ると、黒く気味悪い汁が垂れ流れている。虫は奇形になって飛んでいるか、あるいは異常に巨大化した昆虫が、部屋の隅をはっている。そんな事態。魚は変な臭いをたて、三つ目の鯉が川を泳いでいる。自然さえもが狂ってしまった。

そして人間ならば、それは最初から信用できなかった。政府の発表もテレビのニュースも信用できない。街の人々はイジメに狂っているか、性的変質の嗜好で狂っている。インターネットが日常的な情報源になっている。しかしインターネットもその半分がデマと狂気で満ちている。そんな世界が常態化した世の中である。いずれも、既にそうだと言えば、そうも言えるものだ。

自然界自体が狂気を内在している。放射能汚染という見えない狂気が原因である。通常放射能は見えないのだから、安全を検出するためにはガイガーカウンターを持ち歩かなければならない。この不可視の恐怖こそが、放射能汚染の本質である。このままいけば、人間社会の歴史、人類という種の歴史は、一回終焉するか、それか選ばれた者だけが何処か別の惑星、別の世界に移動するしか、残る道はないように思われてしまう。

そんな新しい災害のメカニズムの中で、人間が生き延びる基準とは、どこにどう成立するのか?これが、東日本震災以降、福島原発事件以降に有り得る、思考の基準となることだろう。しかしそれはどんなものになるのだろうか?新しい条件が問われている。