しかし「自然」の後にはやっぱり何も来ないであろう

1.
どうも今月半ばに地震が起きてからというもの、夢心地の中で生活してるような気がしていてそういう気分が自分の書いた記事にも反映してるのかと思う。基本的に巷で今まで発表されてる論の調子は、ここでこそ日本頑張れ、今こそ日本復活だという論調が多く、それは常識的に考えて尤もなことであって、肯定的な気合を盛り立てようとする姿勢は、今にあって正しいには違いない。特にそこで異論はない。

それに対して、僕がチャイナ・シンドロームを見て得た体験というのは、70年代に原発問題を提起する先駆け的なブームとなったこの映画は、その後80年代に日本でも流行った反原発運動の、過剰に意識を盛り立て押し付けるような、むしろ社会運動によって実は他者性を消去するような調子のものと一味違う。僕の場合はそれをちょっと違ったような角度から見たということである。

最初に描き出されてはじまるのは、カリフォルニア州でロサンゼルス近郊の街の空気にある、太陽の、日が長いように人の気も長く、歴史の後のように平和で温暖で静寂した中で営まれる生活で、そこにある気の抜けたような閑静さの底を、じわじわ繰り抜いていくように、時間の底で、映画的探索が情報の中心に近づいていくほど、底が抜けるように、実はこの平和が、脆くも危険な原子力発電所の作業の均衡の上で成り立っていることを、次第に晒していくという映画だった。

つまり最初にヒステリックな宣言ありきのドラマではなく、じわじわ時間をかけて表面にある平和の底が抜けていくような、郊外の田舎町にある静けさとの対話を究めていく先に、そこで包囲されている大きな危機に行き当たるという話だった。ロサンゼルス郊外に示されている実感のない生活感とは、そのまま60年代的な社会運動の高揚からは遠く隔たってきた生活感である。しかし映画はそこにある生活の感触の網目を、ミクロな顕微鏡で拡大して覗くように分析を加えていき、網目の底には、アメリカ人の生活を支えている母体の部分で、巨大なメカニズムの脆弱な難点が潜んでいることに突き当たるよう出来ている。

いわば生活の内在性にある静けさと弁証法的対話をしていくその先に、大きなシステムの危険が出現するという構造になった映画なのだ。この静けさと弁証法的な関係で対話するという姿勢において、チャイナ・シンドロームのサスペンス映画としての面白さは支えられている。その弁証法的構造において、チャイナ・シンドロームという映画がまだ見るに価するという理由なのだ。その映画で終始覆っているのは、カリフォルニア州原子力発電所を中心に舞台の街を覆う自然の不気味な静けさであり、沈黙の大きさ、自然の沈黙する力の存在感である。



2.
昨日の記事で僕は試しに「ポスト自然」という言い方をしてみたが、しかしどうもこの命名は成立しようのないものみたいだ。人間を捉えるということは、世界を、自然と人間という二項で捉える基本形がある。世界の構成におけるこの二項性というのは、どうやら取替のきかないものであるようなのだ。

つまり、人間は、自分自身だけで自己を支えられない。個人のレベルでもそういう意味で他者を参照するが、人間一般の集合にとってもそれは言えていて、人間は他者としての自然という参照項を見なければ、自らの正誤を確認することはできないわけだ。そこで核時代、即ち放射能汚染によって自然のメカニズム自体が狂ってしまう事態が想定される中では、自然の信用性、人間の問題に行き詰まった時に自然の沈黙と対話することに向かって、解答を求め直すという、伝統的な構造が、機能しなくなる恐れがある。

しかし、人間を人間たらしめることの出来る他者としての参照項とは、どんなに他を探しても、やっぱり自然という他者性以外には見つけることができない。だから、自然が汚染されてしまったとしたら、その自然の回復を、力を尽くして待つしかない。もしすべての自然が地球上において侵されてしまった場合なら、それならば宇宙戦艦ヤマトのように、生き残ったもの、あるいは選ばれたものにおいて、宇宙の彼方のイスカンダルを目指すように、逃走の旅をはじめるしかない。

こういった人類の、選ばれた民の逃走という構図は、旧約聖書ノアの方舟の逸話から変わっていない。つまり、自然の回復に尽力して人間が立ち向かうか、あるいは選民たちのノアの方舟的な逃走の移動、旅が企てられるか、そのどちらかであるという構造に、人間の歴史全体があるのだろう。ここで、宇宙戦艦ヤマトの選択というのは、ナンセンスというか、やっぱり詰まらないものだ。何故なら、そもそもそんな選民的手続きの出来るような手段も資格も、人間が本来持ち合わせているとは思えないものだからだ。自然の回復、一般的人間たちの力における自然の一般的回復という道が、やっぱり正当で正しい。

つまり、ポスト自然という選択肢は、やっぱり有り得ないのだ。何らかの形で、我々は、人間は、自然という他者を、再確保することなしには、人間を人間として成り立たせしめることは不可能である。世界の中において、人間であるということは、自然とともにあるということに不可分である。人間にとって、判断の根拠とは、自然の内在性であり、自然の忠実なメカニズムである。ポストヒューマンという発想もあるが、しかしそれも核時代の段階においてやはり役に立たないだろう。判断の正確さの根拠とは、他者としての自然の中に見出される。ポストヒューマンという存在の様態も、この自然の内在的で機械的な正確さがあって、はじめて確証される。自然はどこまでも論理的である。ということは狂っていてもまだ論理的であるのだから、狂った自然は、回復を待つ、回復を見出す以外にないものだ。自然とはかくして昔から、神の謂いであったわけだし。