『ゆれる』−深淵と谷底の見出される場所性

去年の日本映画だった『ゆれる』を借りてきて見る。最初にDVDを装置でかけていたら(僕はDVDを見るときいつもPCでかけているのだが)、英語のsubscript−字幕が入ってしまって、タイトルのところで−SWAY−と出てきた。「ゆれる」とは、SWAYのことだったのかと思った。SWAYというと、知ってる人は知ってると思うが、ストーンズの曲で、70年の『STICKY FINGERS』に収録されてる曲だ。どうもSWAYという言葉で、他に(日本人にとって)馴染であるような場面が思い当たらないのだが。何か他にあっただろうか?去年の日本映画の中ではわりと話題になった映画であったみたいだ。データを見たら、何とか賞の監督賞06年度とか取っている。西川美和という女性監督の作品である。

ストーリーは、結構シビアな話だった。兄弟の話である。田舎の家の兄弟。オダギリジョー演じる弟は、東京へ出てイケてる写真家として成功している。母親が死んで一周忌に実家に帰ってくる。実家は山梨で、山の中の町である。実家ではガソリンスタンドを営んでいる。ガソリンスタンドを継いだのは兄貴である。朴訥とした田舎の真面目な勤労者である兄を香川照之が演じている。

僕はまず、この映画でテーマになってるのは、「揺れる」の前に「奪う」という関係性の問題だとわかった。兄弟の関係における、idを奪う、奪われるという関係性。別の言い方をすれば、エディプス的葛藤とも言える。そしてこれは別に、兄弟や家族内の関係に限らず、様々な人間関係性で、問題を抽出できる。しかもこのテーマを撮った監督が、女性の映画監督だったということがポイントである。

オダギリジョーは最後の方で、兄弟の子供時代の8ミリ映画を見ながら、「俺は、兄貴から奪ってきたんだ・・・」と呟きながら強涙している。家族で渓谷へ遊びに行ったときの昔の映像である。*1弟は、東京へ出て、写真家として成功した。自分で事務所を持っていて、金にも女にも不自由ない。オダギリが映画の中で乗ってる車は、外車のRV、ランドローバーである。兄は地味で真面目な男だった。兄弟愛、家族愛にも厚く、情は深い。母親の一周忌に参列するとき、兄弟におけるこの格差が顕わに見えている。兄には弟に対する妬みがあるのだろうか?そんなものがあったとしても、兄は少なくとも、おくびにも出さない。その位に兄は善人だったのだ。

田舎町で幼馴染の女性。彼女は兄が継いだガソリンスタンドで働いていた。オダギリと再会する。彼女は兄と仲良かったが、本当に憧れていたのはオダギリの方だった。オダギリそれをよくわかっている。彼女のアパートで愛し合う。彼女は、本当は自分も東京に行きたかったのだ、自分の母親や彼の兄のように終わっていくのは、本当は嫌なだのと告白する。

翌日、渓谷に、彼女と兄と弟は三人でピクニックに出かける。渓谷には、古い木製の吊橋がかかっている。そこで時間の空白が起きる。気がついたら、女は吊橋から転落した。吊橋には茫然自失した兄貴が、しがみついている。驚いたオダギリは山道を戻って駆け寄る。

女は死んだ。警察も検証した。この吊橋の上で、最後に起きていたことは何だったのか?そのプロセスの検証について、拘置所に入った兄は、裁判をかけられ、そこで弟、家族の見守る中で、兄の罪状について争われていくことになる。兄は女を突き落としたのか?それとも女は自分で不注意から落下したのか?最後に取り交わされた会話とは何だったのか?そして本当に悪いのは誰なのか?

この裁判のプロセスの中で、弟にはなかなか罪の意識が訪れない。実際、弟が悪いということには、話の筋からいっても、なかなか当たらない。弟は映画の進行中でも知らんぷりしているような顔つきである。裁判の傍聴席で、兄に面会にいった部屋の中で。しかし映画を見ているものは、明らかにはじめの弟と女の情事を目撃しているわけである。オダギリジョーのこの知らんぷりしてる顔には、妙に苛立つし、また妙にリアリティがある。裁判で検事が提出した証拠に、事件の前の晩、彼女はアパートで、誰か他の男とセックスしてるのが、精液の検出で明らかになったといわれる。その、他の男の存在というのが、オダギリであったということは、誰にも明かされない。秘密のまま埋もれている。そういった裁判の経過の中で、兄の有罪は確定する。兄は刑務所に入る。・・・

人間関係の中で、奪う−奪われる。成功も、女も。兄弟のような関係でこそ、それが露骨なものとして現われることは、フロイトの示した通りである。暗黙に、秘密裏に、人間は、奪い、奪われている。善人とは、アホの別名である。巧妙さ、狡さがなかったら、基本的にこの世は渡っていけない。競争に勝ち残ることはできない。この微妙な残酷さは、人間社会の厳然たるルールである。別に誰がそれに逆らえるというわけでもない。女性的なものとは、それをよく理解しているものであって、男性的なものとは、逆に間抜けなものである。しかしそれは道徳的であり、善の条件であるのだから、必ずそういった、支えてくれる人々の存在は、不可欠なのである。

冒頭の一周忌のシーンで、坊主が帰った後に、村の衆で酒を交わしながら、写真家で名を馳せたお洒落な井出達のオダギリを突いて、村の親父が猥談で盛り上がる。そのぉ、写真というのは、なんだい、女のヌードとか、撮るんじゃろうが、わしもそん時、よばんかい、・・・大きな笑い声が畳の座に響いている。善人はただ単純であるだけだ、セクハラを言っても悪気があるわけではない。オダギリも満更悪そうな顔はしていない。ただ不機嫌で頑固な顔つきをしているのは、彼の父親だけであった。

善意とは、それが単純で原則的−つまり原理的−であるが故に、守られなければならない。村の人々は、長い間の時間をかけて、それを皆よく熟知している。そして本当は、それは田舎や村だけの問題ではない。都会の出来事でも、事情は常に同じであるはずなのだ。ただ都会と村の落差というのが、改めてそこにある奇妙な差異を、シュールに強調して浮き上がらせるだけなのだ。ゆれる、というのは、この、奪う、の深淵を垣間見てしまったときに、はじめて起きる存在の動揺なのだ。女性監督の視点は、その事情に最も自覚的であった。

*1:この辺の家族的回想の空間性を8ミリによって歴史的に認識させるという方法は、ヴェンダースの『パリ・テキサス』で見られた定番的手法なのだろうと思ったのだが。