『断絶−TWO LANE BLACK TOP』−アメリカン・ニュー・シネマの価値

マイミクさんが強く推していたので興味を持ち借りにいってみる。71年の作品でいわゆるアメリカンニューシネマの中では伝説的作品に当たっているのだが最近やっとDVD化された。監督はモンテ・ヘルマンである。モンテ・ヘルマンという人物はアメリカの映画制作システムと関係がうまくいかず、結果的に余り映画を撮ることができなかった人なのだが、この人の実績として有名なものを他にあげると、タランティーノのデビュー作『レザボア・ドッグズ』のプロデュースをしたのが彼である。

早速観てみたがナルホド・・・という感じである。こういう映画が71年ぐらいに作られてあったんだなと。この映画には確実に、映画史的な価値が織り込まれているのはわかった。映像は、静かで抑えられたリズムで語られる世界であるが、確かに地味に面白い。そして繰り返し見てみたくなるような誘惑をイメージが発している。役者で出てるのが歌手のジェームス・テイラー、そしてビーチ・ボーイズのメンバーだったデニス・ウィルソン(あのブライアン・ウィルソンの弟)なのだ。この二人が改造車に乗りこみ、路上の走り屋をやっている。明らかに先行するイージー・ライダーの影響を受けながら一連のニューシネマ的流れとしてイージーライダーの直後に作られた映画である。

元祖にあたる時期のロードムーヴィーでアメリカの田舎、奥深い風景が延々と出てくる。60年代から70年代にかけてのアメリカの懐深くの地域で、その時期の走り屋の話である。いわゆるドラッグ・レースというものだが、自分で改造した車に乗ってストリートで争ってる。若い二人の男が改造車に乗って町を流している。特別目的があるわけでもなく、行き当たりばったりで相手をみつけバトルをする。やってることはといえば、ただ昼夜の区別なく車を乗り回してるだけだ。道すがら途中でヒッチハイクを続けている女の子を拾う。ポンティアックに乗った男−GTOと呼ばれる−と長距離バトルの賭けに出る。GTOはどうも胡散臭い人物で、中年だが妙に金を持っていそうな雰囲気を漂わせ、高い車に乗り服装もお洒落な伊達男である。何故走り屋の無闇な挑戦になんか応じるのかはまるで分からない。なんで儲けたのか不明な中年男だ。この辺は登場人物構成もイージーライダーに等しい。イージーライダーでは、ピーター・フォンダデニス・ホッパーの二人組みのライダー−チョッパーのハーレーに跨る−の二人旅に対して、途中で出会ったジャック・ニコルソン−妙に胡散臭いリッチさが漂う男が、横から介入するようになっている。

動機も設定も不明瞭のまま、ただ車でアメリカの大陸を走り続ける、横断していく登場人物の姿が捉えられている。ケルアックがビートニク運動の小説家として『路上』を発表したのは50年代だが、以後路上系の文学的流れとは、このように余りにアメリカ的に担われた特徴的な文学性として、アメリカンニューシネマにまで続いている。目的意識、物語意識もないままに、ただ当てどなく流離う個人の姿が描き出される。アメリカ的文学である。それはアメリカが捨ててきた大陸、ヨーロッパのキリスト教的傾向とは異なる、対立する、非定住と浮遊性、流動性のストーリーである。

例えば、ヨーロッパ的宗教の精神、掟意識の精神として、ナチズムの時に現れたキリスト教(主にカトリック的なもの)とナチズム的傾向(言葉の正確な意味での、全体主義ファシズム)の迎合がどのようなものであったかを見てみよう。ナチズムとカトリックは、まずジプシーの民を、信仰にとって敵対的なものとして攻撃したわけである。定住しないもの、大地に根を張らないものを拒否する、徹底的に排撃する、何故なら定住が「聖労働」の根本条件だから、という傾向は、ヨーロッパの発達させた反動的キリスト教の傾向である。

地に棹して足を着かず、常に放浪を繰り返している疚しい人々として、まず槍玉に挙げられるのがユダヤ人の存在であった。ユダヤ人同様に、それはジプシーを排撃した。これらは自由を巡る解釈の問題として、ヨーロッパ的キリスト教に現われた近代的な現象である。ヨーロッパの故国を捨ててアメリカに新天地として移住していく者とは、こういった土着信仰からすれば裏切り者にあたっている。ヨーロッパとアメリカの対立的意識、差別的意識とは、こういうところに源を持つのだ。60年代に、現代社会の展開は文化的遊牧民としてのヒッピーの発生を見た。もちろん古くから続くこの対立意識は、ヒッピーも嫌う。『断絶』の中でも、これはアメリカ内部で繰り返されている落差の話だが、田舎で保守的な村のバーに入り、おまえらヒッピーか?ヒッピーならお断りだ。俺たちゃ、兄弟(brotherhood)なんだ、と邪険にされるシーンがある。

ドゥルーズはこのような非定住の文学的性質について『英米文学の優位』という論文で、歴史系譜的に明らかにしている。アメリカ文学ならば、モビー・ディックのように、最初からこのような移動を原理にして構成されているものである。カトリックの国柄のフランス、そしてプロテスタントであっても定住民的な排他性に充ちているドイツ人の気質に対して、移動を絶え間なく続けていく英米文学性の方が優位にあるのだということを、ドゥルーズは示している。ヨーロッパのキリスト教にとって、移動とそれに伴う条件としての貨幣意識の発達、貨幣的に抽象化されうる世界像と蓄財性とは、対立するユダヤ人の条件と見なされていた。

英米文学的な移動の精神に基づく映像−イメージの生産とは、ケルアック的なものを媒介にして、60年代から70年代にかけて、盛んにアメリカ映画として撮られた。ロードムーヴィーの原型とはこのとき出来上がっている。モンテ・ヘルマンの『断絶−TWO LANE BLACK TOP』についていえば、やはりこの映画で捉えられている描写力の鋭さというのは、ちょっと他の映画とは一味違うものであり、抜きん出ている力がある。そして『断絶−TWO LANE BLACK TOP』が、次にイメージの流れとして、映像の影響関係として何処に繋がっていったのかというと、これはもう明らかにヴェンダースの傑作映画『さすらい』に続いたことはわかる。『さすらい』でも、やはり二人の男が合流し、一台のトラックに乗り、ドイツの地を移動するという筋になっている。ヴェンダースが70年代に撮っていた映画、『まわり道』、『さすらい』、『ゴールキーパーの不安』といった作品に流れる、時間性の感覚、回帰的な円環の発する時間の退屈さ−アンニュイと遅さの感覚、退屈を取り囲む自然の堅牢で即物的な描写とか、みんな既にモンテ・ヘルマンの『断絶−TWO LANE BLACK TOP』で、同じものが示されているものだ。

他人の死の経験の抽象性(ハイデガー蓮実重彦)とは、まさにニューシネマ的なシチュエーションによって発見されている映画史的な位相であったのだ。交通事故で潰れた車の中から飛び出ている死体の有様。首を下にして背を向け逆さまに、車の横で地面に突き刺さっているかの如き感じである。トラックと正面衝突した。トラックを運転していた老人が語る。カーブで見えない死角からこの車が追い抜きをかけてきたんだ。もうどうしようもなく、それは避けられなかった。・・・『断絶』で示されるイメージ、それはまた、ヴェンダース的な目撃の感覚でもある。路上にて、他者の死を目撃する。発見する。他者の死の意味とは、他者の死にすぎない。本質的にそれは個人にとって抽象的なものの伝達でしかない。

しかしそういった目撃の経験を、時間の中で何度か反復していく。目撃の積み重ねは、やがてある世界像を、映画の最後の部分で浮かび上がらせる事だろう。人生という漠然とした実体の存在、存在にとって時間性の正確な位相、それは退屈さと遅さ、遣り切れなさ、不安として我々にとって現象する曖昧で遅鈍な実体の有様であるが、日常性の中で、どのように捉えなおすことが可能なのか。そして他者の位相とは、正確には何処に見出されるのか。−それは他者の交通事故死という形で主体に伝えられる。それらの問題設定が、モンテ・ヘルマンからヴェンダースに至るラインとして共有されている事実を、改めて映画史として我々は確認することができるだろう。