映画にとって続編の意味とは何なのか?

今夜は雨が降った後で少し寒めの天気だったが近所のシネコンまでちゃりんこを飛ばし、レイトショーで『パッチギ!LOVE&PEACE』をみてきた。客の入りは多くもなく少なくもなくといったところ。郊外のシネコンのレイトだから、閑散とした客席で贅沢に見るというのが気持ちいいのだが、封切日なので混んでるかも、とも思ったのだが、その辺は大丈夫だった。

しかし、なんというのだろう。映画で1と2と、続編が作られる場合、1よりも2のほうが面白いというケースは今までどの位あるのだろうか。昨夜は深夜の虎ノ門に井筒監督が出ていて今やってるスパイダーマン3を酷評していたんだけど、もちろんパッチギ2の公開前夜にあたるわけで映画の宣伝もして、2はいいですよ、前作超えましたよ、とか誰かが、そんな台詞がたしかに飛び出してはいたと記憶しているのだが、しかしそんなことは絶対ありえないのだな。やっぱりパッチギは面白かった。しかし今回の続編の場合は、1で焚き付けられた映画的興奮の強度について、いかにしてそれを冷ましていくかという沈静化の過程でしかないものである。井筒監督は前にも続編物を撮っていて、『のど自慢』とその続編『ビッグショー!ハワイに唄えば』というのがあるのだが、やはり今回のものと同じ具合になっている。

1よりも2の方が面白かった作品とはどんなのがあるだろうか?ダイハードは2も相当面白かった記憶がある。1の緊張感と強度を続編もそのまま失わず持続したというのなら、ゴッドファーザーとかあるだろう。『パッチギ!LOVE&PEACE』についていえば、今回は役どころで、70年代の国鉄職員として登場した藤井隆の持ち味がとてもよく出ていたとか、ヒロイン役の中村ゆり演じるところの在日家族の妹役の演技を多方面から映し出すことが、今回の映画では中心に据えられていたというところであって、実は本来、1から続くテーマになっていたはずの在日という存在の問題とは、論じられていても殆どが紋切り型の事実説明の話に陥ってるだけで、1の時から何ら目新しい事実はなく、テーマ自体が映像として語られることは殆ど脇に逸れてしまっているのだ。これは監督にとって、殆ど裏切り行為にあたるのだと思う。

監督がこの続編で本当に撮りたかったものは何なのか。それは今時のぶりっ子タイプの感も否めない、新しいヒロインに抜擢した女優のクローズアップを繰り返し、フェティシッシュなアングルから紹介するという仕業であって、同じ話の繰り返しによって退屈化した在日のテーマは、女優を捉えたカメラのくどいような反復にあってチクハグな付随物となってしまう。監督の好みとして、この女優、この顔、この仕草が好きなのはわかる。しかし、前作のようなテーマによって役者を語らせるということがうまく機能せず、肝心のテーマの方は明らかに等閑にされたままにされてしまったのではないか。

もし更にこのパッチギに対して続編がありうるのなら(そしてそっちのもう有り得なくなった続編の方が明らかにより本質的なのだが)、南サイゴンが降伏したことによりベトナム政府が統一された新聞記事を見て終わるという映画の締め括り方に対して、次には、社会主義共産主義国家自体に内在する問題性、カリスマ支配から官僚制支配の問題、軍事国家から独裁政治の問題、そしてイデオロギーの問題を、登場人物が日本から投影した素朴な信仰心に反して、そこをリアリズム的に切り開いていく幻想批判=イメージ批判を描き出していくしかない。

結局、監督は2まで作っても、1から起動していたはずの最も根源的な問題性にまでは下降していくのを避け、すべての出来事が映画という幻想体系の中にすべて丸く収まってしまうようにお膳立てしたまでなのだ。だからパッチギ第一作で焚かれた興奮に対して、二作目はそれを冷却化していくことによって(説明を多用し−映像でも台詞でも、無責任化することによって)映画自体の興奮をゼロ点まで沈静化させるという、半ばは白けた作り方をするしかなくなる。

これは以前の『のど自慢』の時の続編展開でも同じなのだが、一回目に無限に喚起された興奮を、続編によって殺すことによって、映画自体の調和的な完結を見るものである。のど自慢の一作目なら、人前で歌を歌うということの素晴らしさを喚起されたものが、群馬県の町のNHKのど自慢大会というローカルな舞台から飛躍して、二作目ではもっと世界的な舞台の快感と素晴らしさを求めて、ハワイへと移動するものであった。しかし結局はそこで、人前で歌うと云う事の快楽とは、ハワイの華やかさの影にずれていき、自分の愛する夫の前でシンプルに歌うことの喜びへと、帰着させようとするものである。のど自慢一作目の開示した充実した面白さに対して、二作目のほうは、もうドラマを持続させうる磁場の設定がうまくもてず、間延びした感で出来事の流れも単調に陥っていた。無理にラストを繋ぎ合わせるような終り方になっていたと思う。パッチギ2も、藤井隆の奮闘振りによって、何とか映画にとって最悪の退屈さだけは免れたにしても、やはり最後はもう、人工的、惰性的に反復されるだけの紋切り型の説明体系になり、批判意識は単調となり(というか、ここまで来ると実はもう批判は皆無である)、ラブ&ピースとかいいながらも、何故それがラブ&ピースの理念を説明しうるのかも全く実現できず、凡庸な人情喜劇の枠を、ドタバタ物としてステレオタイプに繰り返すだけで終わってしまった。

さて、この映画で結局、影の本質であった、新しいヒロインの紹介はうまく行われえたのか。監督の趣味で描写を多用した女性のイメージである。70年代のスター水着大会の再現シーンも決して悪いものではなかった。唇を尖らせて上目使いにこちらを見上げてくれるこの女の子は、それが例え媚びた視線だとしても、必ずしも悪いわけではない。しかし、ドラマの全体構造から独立してしまって、過剰にカメラ視線を与えられすぎた、この女優の持ち味は、結局宙に浮いてしまう。甘えるような仕草と甘えさせたくなるような可愛らしさも、必然性の要が外れたところでそれをやられても−撮られても、なんだか余計なくどさとしか認識されず、結果的には、この女優が潜在的に持っていた美しさを紹介することにも、大した意味を与えることはできなかったと思う。