家族問題に切り込んだ監督ダンカン

ダンカンの監督作品『七人の弔』という映画を見つけた。近所の蔦屋にも置いてあったので借りてきてみた。ダンカンとはあの、たけし軍団のダンカンである。

ダンカンというと出身が埼玉県でうちの近所だったので妙に前から親近感があった。毛呂山町の出身なのだ。毛呂山というと埼玉の中部に位置するが、東上線から途中で支線に入る。八高線も通っている辺りだ。田舎といえば田舎だが、これといって目立つものもないこの地域にとって、あえて何かを挙げるというと、あの武者小路実篤が作ったコミューン、新しき村というのは、毛呂山町にあるのだ。最初に発足したのは大正時代だったと思うが、一回宮崎にいったあと、埼玉に移ってきたのだ。あと、大竹しのぶの実家があったのも毛呂山だったと思う。大竹しのぶの親父さんというのは、たしか芸術家肌のけったいな人物であったと聞いた。毛呂山の奥には梅林で知られる越生という町があるのだが歌手の大友康平越生中学の生徒会長だったらしい。新しき村には、友人と一回車で見学にいったことがある。今でもそこには農業のコミューンが続いている。田んぼがあり畑があり、展示場や即売所、集会所もあり、子供も見かけた。新しき村の敷地内には、そのまんま八高線のレールも通っている。八高線は単線なので、レールが一列分だけ、雑木林の中を突っ切っていたのを見て、面白いと思った。

ダンカンの場合、最初は談志さんの所に弟子入りしていて後にたけしの所に移ってきたのでダンカンというらしいとは、前に聞いた話であるが、それはシェークスピアの登場人物でもあるのだし、彼は前から脚本も結構書いているみたいだ。ダンカンが04年度に監督した『七人の弔』という映画である。それは、北野武が昔から試みていたように、お笑いの要素、コントの方法を映画の中に多用し応用することで、場面を作っていくという手法が、やっぱり多く見られる。漫才などに出自を持つコントが、そのまま映画的場面として成立するというのは、映画的な時間と空間を構築して示すうえで、何か抽象的で−シュールで、映画的空間にとっての原点的で基礎的な方法論を示してくれるのだと思う。

北野武作品というと、イタリアで人気があることでも有名だが、確かに、イタリア映画の持つ独特のユーモアのセンス、特にブラックユーモアのセンスが、北野武が天然で覚えていたものと自然に一致したというのはあるのだろう。パゾリーニ作品などを見れば分かるが、映像にとっての可笑しみ、時間と空間と間の置き方というのが、自然発生的に北野武のものと一致しているのだ。パゾリーニの作っていた世界を始めとして、ヨーロッパに古くから存在する伝承文学には、下ネタの頻出するものも多い。パゾリーニの撮った、チョーサー原作でイギリス文学の古典であるカンタベリー物語や、デカメロンなどは、もうそのまま当時の段階の有様で、今ではたけしの漫談を眺めているのと同じような内容が語られているものである。

さて。出来具合はどうとはいえ、ダンカンが作ったという監督第一作は、試みている内容はなかなか興味深く、やはりこの世のブラックなものから題材をとっているものである。『七人の弔』という映画で作られた設定とは、児童虐待のある家族の集団キャンプの話であり、教育的なキャンプと見せかけて実は、目的は子供を殺すこと、そして子供から臓器を取り出し、その売買で金を儲けることという、強烈なストーリーが据えられている。複数の家族が思春期にあたるような子供達を連れて合宿に参加する。やがて参加者一同が、孤立した場所の中でブッラクな事件、殺人にまつわる事件に巻き込まれるとは、実は同時期に作られている青山真治の映画『レイクサイド・マーダーケース』とも設定が似ている。何か影響関係があるのかとかどちらが先だったのかとかは全く知らないが(青山真治の映画は原作が東野圭吾の小説である)、子供と親の関係、そして家族という単位について、似たような問題意識が共有されうるという状況はあるのだろう。青山真治の映画では、中学入試を巡る話で、陰で裏口入学を斡旋するための家族合宿で、キャンプの夜に指導員の女性が殺されるという事件がおきて、受験に合格するためには変な評判を立てられては困るという父母の老婆心から、事件の展開、犯人の究明がおかしな方向に向かうという設定であった。

子供とは親にとって他者である。しかし他者でも自己でも収まりきれない中途半端な部分に放置されているとき、ダンカン監督の設定ならば、子供の折檻、児童虐待が起きている。子供が親に愛されないとはどういうことか、また親子は再び愛情というのを再発見しうるのかということが、ダンカン監督の設定では争われている。ダンカン監督の場合は、映画作りにお笑いの技術を注ぎ込み、それらをコミカルな演習で仕立てながらも微妙に人間の残酷さを描写し、散りばめていくのだが、青山真治にしてもダンカンにしても、親子の置かれている社会的な状況の残酷さと薄情さを見据えつつも、その上で、過剰にもならない、薄情にもならない、親子としての人間関係を見出すとは、どのようなものになるのか、というのが問われている。

表面的な物質的豊かさの中にある−子供にとってのゲーム、親にとってのカラオケなど−、その実の人間関係の残酷さとは、近代社会の窮屈に立ち上がってきた初期の頃から実はそんなに変わっていない。それは折檻のようなDVというのが、やはり社会の機械的な連鎖として表出しているのだと云う事は、折檻する父親が記憶を辿っていくと自分も父親に折檻を受けていたとか、そういった連鎖する記憶のロープを次々と辿ることができる。親子の微妙な機微問題とは、映画的問題としても、現在その深さが見出されうるものなのだろう。先日の猟奇的な17歳少年の親殺し事件にしても、ダンカンや青山真治が気が付いて描き出している、親子問題の不透明な深み、家族関係の空虚さと過剰のアンバランスの混入とは、まだまだ文学的−映画的問題として、深められていくべき、多くの問題性を担っているのではないかとは思われ。