『悪魔とダニエル・ジョンストン』−人が底辺に達したとき機能する芸術と信仰について

去年公開されたドキュメンタリー映画であるが、最近DVDになって並んでるのを見たので借りた。ダニエル・ジョンストンというのは、アメリカの風変わりなアーティストである。彼は、一つは音楽を作っていて、もう一つはイラストを描いていたりしている。音楽家としては奇妙な評価を受けているが決して売れたことはない。マイナーに音楽活動している。大手レーベルから契約してアルバムも出したが、それは殆ど売れなかった。しかし彼の曲をカバーするものの中には、トム・ウェイツニルヴァーナがいたりする。ニルヴァーナカート・コバーンは、彼のイラストが入ったTシャツを着てステージにも立った。

今時の言い方で言えば、彼はいわば引きこもり系のアーティストで、躁鬱で、精神を患っている感は明らかに見受けられる。アート以外には、何をやっても全然ダメな男である。カート・コバーンが好んだ彼のイラストの柄は、カエルである。カエルの顔に、目玉が二つ触手を伸ばした様に飛び出ている。何か見たこともある感じだが、昔、ウルトラQに出てきたカネゴンの顔にカエルの姿を付け替えたような絵でもある。そして今のダニエル・ジョンストンの姿もまた、ずっと実家の地下室に篭っているのが滲み出ている位に、カエルのからだのように肥満した胴体を引き摺っている。しかしそんなダニエルの姿は、それでも悲壮な感じは全くない。素朴で楽天的な感で、時々コンサートの舞台にそれで立っている。

ダニエルの作った曲の、シンプルだが密度の濃い構成について、初期のボブ・ディランと比較して語るような人も、映画に出てくる。確かに奇妙に完成度の高い音を、彼は作り出すのだ。そして妙に、聴く者の耳を安らげる。変な音楽である。しかし愛すべき感じも漂う。分裂症的で、対人関係においても浮世離れした感じで、楽天的ではあるが明らかに傷つきやすさの見える、ダニエル・ジョンストンのパーソナリティである。しかし彼は、特に売れてはいなくても、アメリカの立派なアーティストとして、ある種の人々にはレスペクトが払われている。

こういった強烈に変人系のアーティストの存在だが、アメリカには元々、こういう人を囲んで、距離を置きながらも見守る、あるいは時に祭り上げるような、芸術家というものに対するある種のイメージが昔からあるのだろう。分かりやすい例では、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』のような小説の受容を見ればよい。芸術的な感性とは、ある種サリンジャーの主人公のようなものであるという了解が、アメリカ社会には出来上がっているのだ。サリンジャーの主人公とは、労働的世界観、労働者主義的な観点からは、全く何の役にも立たないものだ。あるいはこうも言ってもよい。それは意味的な世界観の立脚からは何の役にも立たない。しかしそれは芸術である。映画の中で、歴史的な芸術家を列記した分厚い本のページが順繰りに捲られていく。ゴッホのページに始まり、アントナン・アルトーの次のページに出てくるのが、ダニエル・ジョンストンである。サリンジャーの主人公のようなものの存在への了解、そして、アメリカ社会にとってそれは、ある種キリスト教的な人間の見方の伝統から基づくものであることが、この映画ではわかる。

ダニエル・ジョンストンの生い立ちを、両親の話を交えながら映画は追っていく。ダニエルが育った環境は、アメリカの保守的な中部、ウェスト・ヴァージニアやテキサスである。ハイスクールから大学に進学し、その頃にはもう明らかに分裂症的な症状が出てくる彼だが、精神的に何か過剰なものを患っていることは、その頃から口にした世界観に現われている。彼はある時期から、自分は世界を救う義務があり、自分は悪魔を追い払う作業−EXORCISM、をしていると公言するようになる。彼が、社会を歩きながら、至る所に見出すのは、悪魔の影である。見知らぬ家に立ち入り、自分に見えた悪魔を追い払おうとして、吃驚したそこの主婦が逃げ出し、二階の窓から飛び降りて足を骨折した事件もある。

ダニエルの生い立ちを両親が語るのだが、彼の環境とはアメリカにおいて、キリスト教原理主義が強い地域であり、ダニエルのパーソナリティを作っている基盤が、このキリスト教原理主義に基づく強迫的な信仰心によるものだということがわかる。キリスト教社会は必ず、何らかの形で、ダニエルのようなパーソナリティの芸術家肌を生み出す。アメリカにおけるキリスト教原理主義の環境的な影響力から、ダニエル・ジョンストンの音楽の関係を見出すのが、この奇妙な人物が生み出す作品を理解できるのではないかと思う。

やはりダニエルは常に、何かのmissionaryな強迫観念に突き動かされて生きているのだ。彼の浮世離れした、日常的には浮きっぱなしのパーソナリティ、下手くそな対人関係とは、この絶対的で過剰に覆いかぶさっている、彼のキリスト教的感性が、そうさせている。社会的な緊張感に耐え切れなくなったとき、彼の神経は必ずカタストロフを迎えるが、その精神的崩壊の流れは、彼の作る楽曲にすべて流れ込み、奇妙に、かつ根源的に、愛に充ちた逆転劇として、音楽の形で昇華され直す。この神経の繊細な機微が、リスナーの心を打つのだ。面白い音楽である。そして透き通っている。ダニエル・ジョンストンとは、徹底的に私的な芸術家であり、私的な人物である。彼が欲張って、公の領域に手を出した途端、彼にとって世界は失調を来たしてしまう。彼の目には悪魔が社会に蔓延るのが見えてしまう。

しかし、彼が生涯において、有名になりたいと、思わなかったわけではない。彼の活動を共にしたことのあるミュージシャンとして、バット・ホール・サーファーズのメンバーとソニック・ユースのメンバーが出てくる。しかし対人関係の難から、音楽の面白さが見出されつつも、上手く活動的なアソシエーションには至らない。結果、彼は再び地下室に戻り、引きこもりながら、自分の音楽を作り、自分の絵を描き、自分自身の世界に向き合う生活になる。いわば、ダニエル・ジョンストンが一人のカルト的なヒーローとして、このようにドキュメンタリー映画まで作られ、奉られているのは、彼が世の中のダメな人達の為のヒーロー的性質を備えているからである。そして彼が、強固に自分の持っている世界観を譲らず、あくまでも自分の絶対的な内在性として拘り続ける姿を見るとき、アートというのが社会にとって必要とされることの、最も素朴でありながら根本的な意味について、一番判りやすい形で、彼の存在がストレートに示しているからだろう。アートが、個人の実存にとって、切に、渇望されることの、必然化されて欲求されることの、最も根底的なメカニズムについて、ドキュメンタリー映画悪魔とダニエル・ジョンストン』とは、改めて示している。芸術にとって、私性の根深さとは何なのか?その構造的なメカニズムと必然性についてである。