福生の町とは、どのように描写すると良い味が出るのか?

蔦屋で『シュガー&スパイス−風味絶佳』を借りてきて深夜に見ていた。一般的に、物語というものの中には、その物語の中で独自に反復性を帯びる、特殊な記号性が出てくるが、この話では、それは森永のミルクキャラメルであり、誰にでも懐かしいあの黄色い箱の上には、滋養豊富、風味絶佳という文言が入っていたのを改めて思い出させるものである。ミルクキャラメルといえば歴史は古そうで、もう大昔(たぶん大正とか昭和初期あたり?戦後というよりはあれは戦前のセンスだろうと思うが)からあのデザインで変更されていないのだろう。そういえば最近見つけたのは、森永ミルクキャラメル味のポップコーンが発売されていた。キャラメル味のポップコーンというのは、シネコン売店などにいくと、いい匂いを漂わせながら売っているので、僕はそれを買うのが好きだったのだが、ついに森永でも発売してくれたのだ。見つけて早速食ってみたが、これはもう個人的には嬉しいばかりだった。

去年の日本映画で、原作は山田詠美である。柳楽優弥沢尻エリカが出演している。あの『誰も知らない』の素晴らしい演技以来、柳楽くんがどんな役者になっていくのか気になったので借りてみたのだ。物語は、山田詠美版の恋愛教室といったものである。高校を卒業して特別大学に行く気にもならなかった男の子が、年上の女子大生と甘酸っぱい恋愛を経験するというもの。18歳から19歳にかけての体験である。このストーリーの中で、作者の山田詠美の語るべきポジションとは、男の子のグランマ−祖母の視点に当たる。祖母は孫に決してお婆さんとは呼ばせずグランマと言わせるのだが、もう70歳になるのに若い男を常にスポーツカーの横に乗せていて、福生でバーを営んでいる。夏木マリが演じている。

高校を卒業する頃、大学に行くのに全く魅力を感じず、働いてみたいと思うというのは、僕にも心当たりがある経験である。この映画の場合、主人公はガソリンスタンドで働き始めるものだ。しかし、この映画では時代設定がなんか混んがらがっていて、福生の町を舞台にしたこの恋愛劇が、いつの時代のものなのか特定しがたい。柳楽くんはオアシスのレコードを聴いているので90年代辺りの設定かと思いきや、夏木マリの乗ってるオープンカーは、国産の明らかに70年代のもので、この車が現役で走れたのは80年代までだろうとも思う。今見るとノスタルジーにしかならないスポーツカーなのだ。柳楽と沢尻が横浜の町を見晴らすとき、ランドタワーが見えるので、これはつい最近の出来事でなければならないし、福生の自動車教習所の受付で使ってるパソコンモニターは液晶の薄いものなので、やっぱり最近のものである。

この映画で風景が描写されるときの特徴を見ていくと、なんか町のいまいち寂しそうな感じが、東京にしてはまだ情報網が行き渡っていない時代の感じで、現在よりもやはり一時代前の感覚がする、郊外のスカスカした間隔なのだ。全体に漂う切ない雰囲気、そして西東京の、広々とし閑散とした景色、まだ宅地が出揃う前で、開発中の郊外の風景から見るとき、精神的な情緒からいうと80年代の設定が相応しい、80年代的な精神へのノスタルジーが基調になっているのではないかと考えるのが一番しっくりくる。山田詠美もノスタルジーの感傷性によって、この若い人間向けの基礎的恋愛論を書いてるのだとすれば、彼女の背景からしても、80年代的な情緒が下敷きになりうるのだと思う。

しかしこの映画でも、ラストの方にある柳楽くんの長い描写はとても切なくなった。柳楽くんにとって、この俳優の出し味、描写すべき醍醐味というのは、『誰も知らない』の時から続き、もう彼にとって完成されているのだろう。それは、柳楽くんからどのような描写を引き出すことが、最もこの役者を輝かせうるのかというアングルである。もうこれしかないのだ、といったもの。去っていく女を追いかける柳楽が、自転車で何処までも走り続ける。冬の福生の町を。この胸を締め付けるような切なさを映像で表現するために、すべてこの映画の存在意義があったという感じだ。そして、ここで味わう涙っぽい酸っぱい味は、『誰も知らない』の時に前回、感じたものと同じものである。

お話の方は、要するに若い人間達に向かってする、山田詠美版恋愛レクチャーなのだが、若さと愚かさの刻み込まれた、辛い失恋を経験する男の子に、グランマがバーで、とても本質的な説教をする。女性と(対すると)いうのは、優しいだけじゃダメなんだから。ちゃんと適所でスパイスを効かせなかったら。女の人というのは逃げちゃうものよ。よく理解しなさい・・・というレクチャーを、ひと気のなくなったバーで、一対一になり、長い白髪をライオンのように靡かせる夏木マリが行う。キャラメルを舐めながら。黄色い箱の上には、旧い漢字体で、滋養豊富、風味絶佳と印されている。まさに純粋さを絵に描いたような青年は、経験に傷つきながらも、少しずつ人生の全体を学んでいく。教養小説的な道程になっている。彼の発する奇麗すぎる目線が、果たして現実に存在しうる若者の物かどうかという疑問も残るものの、この強烈に切なくなる光線を出すことのできる者とは、まさに柳楽くんしかいなかったわけであり、透徹した貫くような目線の味を出すために、それまで二時間、この映画的持続があったようなものである。これを見て、ああ、このDVDを借りてきたことは、やっぱり別に、間違いではなかったかな?と自分に納得するものだった。