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途中で何回か道に迷った。究極さんはガラガラ音を立てながらトミー譲りの少々コンパクトな旅行用キャリーバッグの車輪を転がし歩いていた。ニューヨーク市の地図を持って歩いているのはずっと究極さんで、僕はただ言われるままに頭の中はぼんやりとしたままに彼の指示に従って歩いてるだけだったのだが、ちょっとすべてをずっと究極さんに任せすぎたのかもしれなかった。究極さんも僕も疲れていた。判断力もお互いに鈍くなっていくばかりで、道を決めるときのやり方ももう殆ど動物的な行き当たりばっかりで、二人は歩くだけの機械のように成り果てて、疲れた頭を抱えながらあっちこっちへ移動を繰り返しているというようだった。だから何回も道を間違えて同じ通りを行ったり来たりを繰り返した。村田さんの働く日本人居酒屋の住所と大体の場所の目星は、飯塚くんから教わった通りと、究極さんは言っていた。しかし、飯塚くんはニューヨークで既に留学経験によって幾つも訊ねるべき場所を持っており、アイリッシュの祭で別れてからは別の場所に寄ってから、村田さんの居酒屋で合流しようということだった。

イーストソーホーの全体とは、そこが一つの大きな文化的な村のように出来上がっている。通りに面した店は、カフェにしろブティックにしろ本屋にしろビデオ屋にしろ、どれも面白そうな店が多く、落ち着いた気分で晴れた暖かい日にでももしここを訪れていたら、ただ歩いているだけで気分良くなってしまうようなオーラは出していた。しかし僕らは、よく道に迷い、イーストソーホーの区画をあちこちで端にはみ出したりを繰り返しながら、その狭い界隈を何度も同じ道に戻ってきながら、歩き回った。中央の区画が四角く成立しているストリートの両脇には、店が立ち並ぶ。その周辺では、一歩入ると普通の住宅街だが、マンハッタンで一軒家のような形態の住宅というのはまず見ないので、アパートメントの群が、古いビルとか新しいビルとか、ずっと立ち並んでいる区画が延々と続いているものだ。そこで迷い込んだ一画だが、そこは閑静で車や街の雑多な騒音からは離れているけれども、日本から来た我々目には何か見るに懐かしい、古い団地が距離を置きながら何棟も同じ長方形の企画で同じ高さの建造物として立ち並んでいる光景に出くわした。夜の浅い時刻に生活臭のある光を放つ古くからありそうな団地の群れである。日本の団地の風景と似た面もあるがこちらの団地街というのは微妙に異なるような側面もあるものだ。しかし同じ、夕刻の、夕食時にはあり気な生活臭と個々の明かりをともしている。団地の脇には自転車やバイクの共通の駐輪場みたいなものも控えている。これは見慣れた懐かしい風景でもあるだろうか?しかしそれは微妙に違うとも言えるものだった。いや日本でもやっぱりあるか。人間的でありながら微妙に非人間的な、牢獄のような冷たさもそこは発している。中途半端にきれいで整い、中途半端に汚れて荒れているような住宅用団地の並ぶ眺めだった。何かその光景に冷たい感じを得たのは、その団地の並ぶ様が、ある映画で見た通りの風景とそっくりだったからだと僕は気づいた。

「ねえ。ここは団地でしょう。ニューヨークの人々が住む団地だ。しかも結構年季の入ってるような古くからあるような団地の町だ。けどね。この風景、なんか見たことあるよ。見たのはきっと映画の中だ。」

「何の映画だい?」

究極さんが聞き返した。

キューブリック時計じかけのオレンジだよ。あの映画の中で、主人公の不良少年が住んでいた団地だけど、あそこに出てくる団地とここはそっくりだよ。」

「ああ。時計じかけのオレンジね。そういえばそうかもしれないな。」

キューブリックはそういえば、ニューヨーク市立大学の夜間部で映画を学んだらしいよ。」

キューブリックってアメリカ人だったのか。ぼくはイギリス人だと思ってたよ。」

「うん。時計じかけのオレンジを見たときは、あそこで舞台になってる風景はイギリスで、ロンドンの郊外にある団地なのだろうと僕もずっと思っていたよ。あそこに登場する荒れた町と不良少年のイメージはとてもイギリス的な風景に思えていた。でもよく考えればキューブリックはニューヨークの出身だったんだし、時計じかけのオレンジのコンセプトは、ニューヨークの周縁的な地区で温められたと考えたほうが、正しいな。」

「そういえばそうだ。見れば見るほど、ここはまるで時計じかけのオレンジの世界みたいだ。」

究極さんは立ち止まり、目の前に開ける夜の中の団地の群れの全体を、感慨深げに改めて眺め回した。生活臭のある古い団地の棟だ。周りの雑草が中途半端に生えてるところなど廃墟のような風景にも見えるが、見れば上には光がともり、生活臭が漂い、ラジカセで音楽を流す音が漏れ聞こえ、そして料理をしている煙やにおいが漂っている。日本にもよくあるが、ここは老朽化した古い団地の棟なのだ。