8-5

やっと朝になった。しかし何かが足りない気がしている。

そうだ。究極Q太郎が帰ってくるだろう。寂しい部屋の中にずっと一人で耐えていたが、朝になれば究極Q太郎が帰ってくるだろうと思っていた。そう信じていた。こちらはベッドの中からあれこれ推測するだけだが、マンハッタンの上に拡がってる空はもうすっかり明るくなっているはずであって、しかし究極さんが帰ってこない。そうこう思いあぐねているうちに、僕は再び眠りに落ちたようだった。頭の片隅には、スザンヌ・ヴェガは何故キリスト教を棄教したのかという問題の断片と、何故究極さんは帰ってこないのかという問題の断片を、存在に引っかかる切片として、論理的な問題の切れ端として、そのまんま残したままに。そしてまた目が覚めた。こんどはさっきより気温も上がっているようであって、室内の光もよりはっきりした力強い明るさになっていた。午前中の明るさだが、もう9時頃の光だろうか。しかし究極さんは、やっぱりまだ帰ってきていない模様である。昨夜、究極さんは、体調の悪い僕を残して、マンハッタンの夜の街へと、村田さんと飯塚くんを携えて、飲みに行った。朝には彼も帰って来るだろうと思っていたが、しかしなかなか帰って来ない。彼の身には何かあったのだろうか。・・・それかよっぽど楽しい何物かに夜の街で巻き込まれたか。・・・それは不穏な事態なのかあるいは楽しすぎるくらい間抜けな事態なのか、果たして事態の正体は。・・・もはや薄まってきた眠りの底で寝返りを打ちながら、何度か睡眠と意識の間を往復した挙句、待つことの倦怠感を浴びては散々心も身体もやられた後に、ホテルを響き渡る大きな歌声に気づき、ベッドの上で我に返った。目を開けると昼だと分かる光がはっきりと室内には充ちていて確認はできた。酔っ払った歌声が大きく廊下に響いてくる。機嫌のヨサゲなその歌声は次第に僕が寝ている部屋の前へと近づいてきた。ガツンと勢いよくドアが開いた。顔を真赤にした究極Q太郎が入ってきたのだ。彼の仕草はよろよろしながら大雑把で乱暴だった。ベッドにいる僕と顔を合わせた究極さんが叫んだ。

「くりちゃん!」

「究極さんどうしたの?」
「いやーーー」
ふらふらしながら究極さんは隣の空いているベッドに腰掛けた。それでしばらく顔を揺らしながら、目の焦点を合わせているようだった。
「完璧に酔っ払ってるよね。究極さん!」
究極さんの目の調子が面白い具合だ。
「どうしたのよ?昨夜は何があったの」
「いや・・・朝に、気がついたら、おれ路上に寝ていたんだよ・・・」
「どこの路上に?」
「地下鉄の終点だった」
究極さんは腰掛けたままよろよろ体を揺らしながら赤い顔をして答えていた。
「地下鉄の終点といってもそこは青い空の下のホームで、しばらくそこで寝ていたみたいだ。・・・」
「そんなの。危ないじゃない」
僕は笑った。
「いや。全然だいじょぶだって。…全然大丈夫だったよ。ニューヨークなんて普通だよ」
そう言って究極さんもへらへら笑いだした。
「どこからどう乗ってそこまでいったのよ?そもそも昨夜は、村田さんと飯塚くんと何処で別れたのよ」
「いや・・・全然覚えてないよ」

究極さんは、ベッドの上に片足をあげ、ズボンをめくって見せた。長くて厚い靴下の中からお札を丸めたものを取り出した。
「お金はここに隠して持ってたんだよ。」
究極さんは嬉しそうに続けた。
「何も盗られてないし、何もされていない。ニューヨークなんて、全然普通の街だよ。全然大丈夫な街だ。こんなまち、普通のまちと何も変わんないよ。・・・」
「あっそう。そりゃよかったけど。少なくとも究極さん自身は無事だったみたいだね」
奇妙な用心深さにも見えるが、過剰装備とその過剰装備の退いた後の人の姿が、究極さんの隠し靴下で二重にかさなり、面白かった。
「それでこんな大声で歌いながら、ホテルまで帰ってきたわけか。究極さんがさっき歌ってたのはトム・ウェイツでしょう?」
「あっ。わかった?そうだよ。トム・ウェイツだよ。よくわかったねえ」
「何の曲かはわからなかったけど、声の出し方がトム・ウェイツと同じだったよ。なりきりトム・ウェイツになってたよ」
僕は酔っぱらいに向けて丁寧に説明してあげた。
「だからその曲は何だかわからなくても、これは一発で、あっ、この人は成り切りトム・ウェイツになっているのだと、わかるくらいだった。」

究極さんは、後方のベッドの白い水平の空間にひっくり返り、そのまま動きを止めてもう眠ってしまいそうな感じだ。究極さんをここでしばらく休ませた後にホテルを出るべきだと考えた。そして僕のほうの体調はもう復活しているようだ。ベッドの上で動きを失い、心地良い眠りか自分だけの世界に入っていった究極さんをそのままにして、僕はバスルームへいき、シャワーを浴びた。シャワーの温水を上から浴びながら歯も磨いていた。相変わらずこのホテルは人気が少ないようだが、昼下がりの静けさの中で、心と体を入れ替えていた。大きなバスルームがあり、共同だが僕の他にここを通る人もいない。バスタブの横に少し離れて、トイレットが置いてあり、そしてその先に鏡と水面台がついている。広いバスルームだが、バスルームのドアも閉めずに僕はシャワーを浴びていた。バスタブを仕切るビニールのカーテンが一応ついている。そこだけ閉めたが後は明け透けな気持ちでからだも洗っていた。見られたところで特に減るものでもない。そして背後の部屋では究極さんがイビキをかきながらひっくり返ってるはずだった。チェックアウトは確か3時に設定していたと思う。それまでには究極さんに、正気に戻ってもらわねばなるまいと考えていた。